【復刻】ニヒリズムのこと

 

 

当為の非存在(ニヒリズム)のこと。

 

 

道徳的・倫理的原則のことを当為と呼びます。当為、すなわち私たちが何を為すべきかということに関する真偽は、それがあるとすれば、何を基準にしているのでしょうか。一つの解答は、通常の理性が立ち入ることのできない超理性的領域から、当為が零れ落ちてくるというもの。超理性的なので、それが正しいものだと理解するためにはそう信じるだけの何かが必要になります。たとえばこの当為は神が下された命令だ、という物語なんかがこういう当為の理解を可能にします。もう一つの可能性は、この初めのものと比較して初めて意味を成すような選択肢ですが、理性が通常働く領域から当為が立ち現れてくるという考えです。つまり、経験から当為を導くことができるという考えです。経験からといっても、様々な経験があるので、したがって様々な導き方が考えられるということはすぐに分かります。しかし、少なくとも当為が超理性的な由来を持つのかそれとも経験的な由来を持つのか、という話をするならば、現代の私たちは超理性的な領域に対して批判するのが不可能になるほどの信仰心を抱いているわけではないので、後者、すなわち当為は経験に由来するという考えを採用せざるを得なくなります。

 

経験が当為の根拠であるとした場合、真っ先に問題になるのは経験が偶然の産物だということです。どんな経験も、偶然それが起こったから経験するに至った、という側面を持ちます。このような必然性を欠いた概念に当為が根差している場合、当為それ自体にも偶然性の影響が現れることが懸念されます。当為は、それを導く人が何を経験したかによって内容が変わってくることになりかねません。しかし、当為とは人間の倫理的な目標を指示するものですから、それが個人個人の相対的なものでしかないとするならば、当為は個人の将来の夢やなりたい人物像などと大差のないものになります。

当為は本来はそういったものではないと考えられています。ある人がなすべきだと考えられていることは、他の人も同様になすべきなのです。さもなければ、私たちは自分以外の人間の振る舞いについて、善いとか悪いとか判断することが全くできないことになります。当為に従った行為は善く、そうでない行為は悪いのですが、当為自体が人によってバラバラだったら、一見悪い行為にみえても実際その人からすれば当為に従った為すべき行為なのかもしれず、その逆もまたあるかもしれないからです。

 

そうすると、当為はやはり経験に由来するのではなく、超理性的な原理に基づいていると考えたほうがよいのでしょうか。それはどうも疑わしく思われます。

それでは一体、私たちは私たち全員に普遍的に当てはまるような当為を、どうやって経験から導くことができるのでしょうか。

 

経験から導くことができて、しかも私たち全員に当てはまる当為なんて存在しない、という考え方があります。これを、正しいかどうかはさておき、ここではニヒリズムと呼ぶことにします。

ニヒリズムが主張しているのは、当為などという概念がそもそも存在しないのだ、ということではありません。当為という概念が存在しないというための一つの方法としては、その概念がそれ自身のうちに不整合を含んでいるということを示すというやり方があるでしょう。しかし、内在的不整合をどのような仕方で示されようとも、現に当為という概念が私たちの思考のなかで機能している以上、当為という概念の非存在を示すことにはならないでしょう。概念の不整合性を示す手順を間違えたか、あるいはそもそも概念の不整合性が非存在を意味するわけではないということが考えられます。

なので、当為というものはある、そしてそれは経験から導かれる、ということを認めるならば、次のことも認めなければなりません。つまり、当為の出どころは経験しかないのだから、経験は当為を導かなければならない、ということです。

けれども実際にはどんな当為も経験は導かない、というのがニヒリズム的考えです。別の言い方をすれば、当為は経験から導かれるけれども、どんな内容をそれに適用しても、それは間違いだ、ということになります。

 

 

思考の方法と内容のこと。

 

哲学には方法論があるのでしょうか、それとも実は内容と切り離された方法などはないのでしょうか。哲学の方法として代表的なものは、ソクラテスのいわゆる産婆術に始まり、カントの分析論と総合論のペアや、ヘーゲル弁証法、より最近だと治療的態度というようなものが挙げられます。

これらの方法というのは、一見それだけを単独で取り出して理解することができるように見えます。たとえばヘーゲル弁証法なら、あるものとそれに矛盾するものを、まさにその二つのものの矛盾を作り出しているところに注目することで、矛盾したまま統一するという形で発展させる方法、というように説明することができますが、これは方法をその内容から独立のまま取り出したとみなすことができるでしょうか。

方法論を単独で取り出すことができると考えるためには、次の二つの課題をクリアする必要があります。第一に、方法論を説明する際、そこで用いる対象の性格に依存することなく説明できること。第二に、上の条件下で、方法論を十分に説明できること、この二つです。〔…〕。結論だけ述べると、内容から切り離された方法というものの理解は不可能である、というのが私の考えです。方法が十分に機能するとき、それはその内容に特有の性格のおかげでそのように働くことが可能だったのであり、またその性格を失った状態で方法だけを取り出そうとしてみても、今度は方法から何かが失われてしまっているのです。

 

しかし一方で、私たちの経験するいかなるシーンでも、思考が進展するとき、そこには「どのように」進展したか、その進展の方法が存在します。つまり、理想的には、経験から方法が導かれるのでなければならないのです。

 

経験は当為を導かなければならない、一方でどんな当為も経験から導くことはできません。また、経験からは思考の方法が(方法というのは突き詰めて言えば、それが理解され意識的に従われるものである以上、思考の方法です)導かれなければなりませんが、どのような方法も経験から導いてくることはできないのです。

 

昨今では、当為に関するニヒリズムおよび方法論についてのニヒリズムは比較的よく認知されています。つまり、どんな当為も経験から導くことはできない、どんな当為も存在しないという考え、また同様に、どんな方法も存在しないという考えです。しかしこれは事態の一面でしかなくて、こちらの面を強調しすぎるともう一つの面についてどう理解すべきかが分からなくなります。もう一つの面というのはもちろん、経験からは当為と方法とが導かれなければならない、という側面です。この側面も正しいのです。

 

 

はい、ここまでです。え? はい、ここまでです。

 

 

2019.06.17

【復刻】そういうのではない

 

こういうドヤ顔が好きでない。こういう仕方で無駄に自信満々になることが善いことか。この手の情報を求める人は結局はこのドヤ顔を追い求めているのかもしれない。

能力。なんだろうか。よい人材を目指すとは「よく使われる」ことを目指すことだ。人材であれ木材であれ、the purpose of them, as such, is to be used. この’as such’が重要、つまり人材が人材であるうちは使われるために存在する。使われるといってももちろん人にではない、社会にだ。ここで人に使われるまでが人材、自分で人を使うようになればもはや自分は人材ではないと思えるのならおめでたい。社会はどの個人よりも大なり。社会がいいかどうかも分からずに仕えるのでは、相手が天使か悪魔かも知らずに慄き奉仕することと変わらないのじゃないかね。

でそれが何だというんだ。いやいやもちろんだからといって何だということはない。よい人以上によい人材を目指すのが悪いだなんて言わないし、思わない。何なら私は君が思うよりもっとラディカルだって言ってやろうか、私は悪魔に仕えるのも悪いとは思わない。何であれ個人より偉大なものは個人に敬われ誠心誠意奉仕される資格がある。だけどあなた、こんな能力身に着けたいと思ってる、世にいい人となろうとしているあなたは考えたことがあったか。あなたが何に仕えようとしているのか、その必死さが何なのか、誤魔化さずに考えようとしたことがあったか。

 

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シュルレアリズムは“作品群”になった、美術館で展示されているのだもの、「シュルレアリズム展」なんだもの。展示するくらいなら写真だけ残して焼却したほうが真理に即している。「諸君が私の作品と見做したものは、私自身の残り屑でしかなかった」(アントナン・アルトー「神経の秤」)。

シュルレアリズム本来の力とは、意志とは何だったか。人間に本来のもの、失楽園以前のもの、を取り戻すための啓蒙、と扇動。「この劇を見たなら、今すぐ街に出て革命を起こせ!」そういや革命という言葉も安くなったものだ、いま革命という語と響きを聞いても、誰もまさか革命のことを意味しているとは思わない。革命自体は私たちの誰も知らない、未知の概念で。認知されないことには始まらないからと言って流行らせること、安売りすることで逆に人々を骨抜きにしてしまうのだから、啓蒙も考えものである。

社会はあなたにあなたのものでない服を着せる。服はあなたの身体性を変える。動きにくい身体のせいで追いつけない男性と、ハイヒールとスカートのせいで上手く逃げられない女性、のスケッチをピカソが残しているらしい。「これはそもそも男が追いかけたりしなければいいのよ、そんな身体で向いていないことを必死にやるなんて」「それを言うならあんただってさっさとハイヒールを脱げばいい」いやいや結局、この現状が一番の落としどころじゃないか。気持ち悪い男の追跡と、不器用な女の逃走。男だって追いかけたくて追いかけているのではない。女の逃走が自然なものであるのと同じくらい男の追跡も自然なものだ。どちらかだけが解放されるということはない。立場が逆転したら、女は追いかけるのをやめ、男は窮屈な衣装を捨てるか。止めないし、捨てない。望むと望まざるとに拘わらず。

先日とある大学祭にちょっと立ち寄ったときに思ったのだけど、女性の服の傾向が少し変わってきているような気がした。まだ他の人の証言を得ていないので何とも確証はないが。もし他の人も同じように思っていたら少し調べてみたいと思うが、簡単にいうと「今のこの状況でどうすれば一番うまく生きられるか」の抜け駆け戦略を追求する路線上にあるようだ。閑休。

シュルレアリズムは失敗した。エロのモチーフを使いすぎたというのもかなり大きい。しかしその思想はどうか。やはり失敗した。何しろ、「人間本来のあり方、思い出して」、そんなもの思い出していたら、出遅れてしまうじゃろうが。私たちはよい人材になるのに忙しいのだ。上手く生きるんだ、この社会で。失楽園以前とか自由と理想の世界は死後転生してから考えても遅くはない(昨今小説家になろうのコミカライズが甚だしいと聞くが、漫画はある程度世相を表す)。

それは全く悪いことではない。「晴れ渡るそらを見てると 自分が小さくなったみたいで それは 全然悪いことではない と思うよ たぶん、ぜったい」(森山直太朗「群青」)。シュルレアリズムの思想的失敗の最大のものは、こういう「服を着た」生き方が全然悪いことじゃないと真剣に思わなかったことである。ということにしておく。悪くないものに強く反動的にアクションを起こそうたってそれは難しい。

しかし悪くないものも過分になると悪い。エレベータは乗りすぎるとブザーが鳴る。じゃあ誰が下りるか、おいお前降りろ。どうしよう降ろされちゃったよ、階段でいくか、急げ!いやいや待て待て、それでいいのか。それでいいのかどうかを、あなたにはあなたの思考を経由して決めてほしい。

 

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私たちを解放するものはあるか。こんな「賢く」なるための本はだめだ。そんなのはうまく服を着るコツしか書いていない、余計に脱げなくなるぞ。じゃあ何だ、私たちを解放するものは(「解放」とは、上の男女のモチーフで女性が望むのとまったく同じような「解放」のこと。)

家畜としての豚は不幸なのか。時々言われるように、家畜として生きることでこれだけの個体数を地上で実現させている動物たちは、ある意味で生存競争の勝利者である、一番手ではなくとも上位の勝利者である、ともいえる。食事はもらえて外敵はいなくて死ぬときは安楽死。それでも豚は不幸か。「私には不幸に見える、私はそんな豚にはなりたくない」。いやいや今は、豚に聞いているのだ。豚であることは不幸かと。豚が自問したら何と答えるか。そんなら私たちが自問したら何と答えるか、私たちは不幸か、と。

満足な豚よりも、不満足な愚者。満足な愚者よりも、不満足なソクラテス。それなら満足なソクラテスと不満足な豚ならば、やはり不満足な豚のほうが幸福だろうか。満足だけでは幸福になれないことはみんなよく知っている。さぁ不満足な豚は幸福か。幸福でないとしたら、なぜ、豚だからか。それならただ豚より愚者、愚者より賢者と言えばよかろう。

 

だんだん話が気持ちのよくない、嫌悪を催すものになってきた。分かる。その嫌悪感もやはり悪いものではない。さらに言おう、それは服を着て生きるに「適して」いる。だが知らなければならない、そういう嫌悪感が、私たちがいま何をしようとしているのか、どこを目指しているのか考えられなくさせているのだと。嫌悪を感じて、現実を脅かそうとする何物かから逃れることが、あなたをより一層「満足な」生き物にするのだと。

 

 

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つまり、そういうのではない。能力を身に着け、よき人材よき人となって、個性的な人となって上手く生きていこう、「みんなが輝ける世界へ」。そういうのではない。悪くはないけれど。

何も、本当に、悪くはない。だから解放もいらない。すべてなるようになる。すべてなるようになる中で、私は何だったのか、世界はどんなもので、私はどう生きたのか。それを知っておきたい。それだけなのである。

 

 

2019.06.21

【復刻】Apologize you cannot

 

Apology is something ethical. It has no certain meaning but it surely expresses something. Some nay say it expresses emotions, emotion of the guilt. But apology is almost meaningless when it is merely expressed, and we clearly know that we need somebody healing our words, somebody who has had the same event with us and has the right to receive our apology. It is not merely an expression of feeling (indeed no action is a pure expression of feeling).

 

Here we have the questions: For what do you apologize, and for whose sake do you apologize?

 

Although it is almost impossible to answer to these two questions wholly, we seem to be able to give some suggestions. We start from the first one. We may say that we apologize in order to beg a pardon, or a forgiveness. Literally, ‘I’m sorry’ means that I feel sorry, apologetic or pitiful of something. In some cases ‘I’m sorry’ does not indicate apologizing and we do not count them here. When you apologize, you have an ethical emotion that tends to have you beg a forgiveness. For what do you beg a forgiveness? In most cases you’re not aware of your own emotion that moves you, and therefore it is not accurate if we say that you wish to deal with your ethical emotion which makes you feel guilty. You just apologize because you feel like to do so. Ethicality, if we think of its negative aspect, is something restricts your thought. When you are ethical, you are more or less blind, losing the reason why you know you need to do this ethical action. To trace the exact reason is a taboo in an ethical world, and before you start tracing, your feeling causes your actual behavior. You are not aware of your ethical emotion because it is forbidden to trace it, and you have no thinking as such to deal with that emotion.

What is this ethical emotion? The ethical emotion directly relates to your apology, and thus, so far as you do not know what this is, you do not know for what you apologize, for what you beg a forgiveness. Here it is important to notice that, when you ask a forgiveness, you need somebody, not anybody, to hear your asking. You are clearly aware that, whatever your purpose would be, you cannot achieve the purpose by yourself. You have the other (should we say ‘the Other’?), and now we come to the second question: For whose sake do you apologize?

You are apologizing for the other, begging a forgiveness to the other. You might think you are doing something for the other’s sake. According to a naïve way of thinking, your action is always done for and denoted to a higher purpose, and otherwise you do not act. If you act not for yourself but for others, it is nothing but to denote to the others’ sake. Thus, by a sincere apology, you might think you are giving yourself for the other. This is the way in which you get angry and say ‘I am apologizing from the bottom of my heart, but why you fxxx do not forgive me!’

The other might need you and your apology, but it is not necessary in all cases. Ono the other hand, you must need the other in every scene when you apologize. You need the other for your own sake. Are we always selfish? In some sense, yes. However, in the other sense not necessarily so.

You feel that you need to ask a forgiveness, and at the same time you need to compensate for the other. Is this because we think that compensation is the only one way to be forgiven? I am not sure. Anyway, it is true that when you feel sorry for the other you want to compensate for. You have to consider how you can do so for the other. Here you imagine an ideal world in which you can be forgiven by your compensation, and your ethical problem is gone. You wish that this ideal world comes to be real. However, there are two huge differences between the real and the ideal worlds. There may be no way for you to compensate, nothing you can do for the other, and even if you can, you can never judge if your compensation balances with your guilt. Yes, the first point is of great importance, but the second one is more fatal. The equilibrium must be the matter, but you can never know if you’ve succeeded or not.

On the one hand you have the imperative which says the you have to compensate for the other in order to balance with your fault. On the other hand, you are now aware that it is impossible to compensate for. For whose sake do we compensate? When we are just thinking of compensating, we will to do it because it is our duty, the real duty. We do not do for the duty’s sake, but we do without any reason. You may remember that we said that ethicality restricts our thought. When we have a real duty, that does not appear as a duty, but, we dare say, as nothing. We know we have to do because of nothing. And thus, when we have a duty to compensate, we do it, thinking nothing but compensating for the other. Therefore, the action is for the other’s sake, for the other’s purpose. However, we still have to say that the compensation is purely selfish, is done for yourself. And if you are aware that you are begging a forgiveness and trying to compensate for the purposes of yours, is you are aware of your selfishness, you at the same time notice that apology is impossible.

 

Apologize you cannot. You cannot be sure as to if you are forgiven or not, if you have done something good for the other. The reason why we cannot apologize is clear. Because bad is bad. Once you recognize your fault or guilt as an ethical bad, then you become bad due to it. Now because you are bad, you cannot escape from being bad except for giving upon yourself, which is surely impossible so long as you are you. Apologizing is to rely on somebody else, that is to ask a help to others. But nobody can help you because you are bad, because to help you is to help a bad.

What should we do then? I would like to answer, nothing. If you can change a bad to a good, then that was not a real bad. If it is real you cannot.

To be good is good, but what is worth is to be moral. Morally speaking, you are alone, we are all alone. Once we are aware of this, we can stand in this lonesome world. We can refrain from disappointing of our failure of apologizing. We can stand with our badness. The real apology, the real compensation is nothing but to stand with it.

 

 

2019.07.21

【復刻】文化論1 良い悪いと価値観間の相対性

 

ある文化は良く、ある文化は悪いなどということはない、

ということはない。

ある価値観が優れており、あるものは劣っているなどということはない、

ということはない。

 

確かにある価値の規定の中でのみ良いや悪いが問題になりうると言えるかもしれない。ある文化の中でのみ、一定の行為が良かったり別の行為が悪かったりする。同じ行為が別の文化のうちではまた別様に記述され、一方で良いとされていたものが悪いと言われ、and so on。

ここでいう文化的な相違というのは広い意味で解釈され、同一文化圏にいる人たちの世代間での差も含まれている。

 

我々は文化間の違いについて認識し、どちらの文化が優れているとか良いとか比較を行う。これは現にそうやっているという意味。たとえばLGBTに対する寛容さに関しては世代間で文化的ギャップといえるほどの態度の違いがあるが、この点に関しては人々は寛容であるほうが「良い」と考える。これは自分がどちらの文化圏に属するかにもよるわけだが、少なくとも寛容であることを勧める文化の人々は自分たちの正しさに確信を持っており、正当化するためにどこに訴えるべきかということにも見当がついている。つまり「正義」に訴える、訴える資格が自分たちにあると考えている。

文化間・価値観間で良さに違いがあるのは我々にとっては当然の現象だ。それが明示的に問題になったときだけ、いやそもそも良いとか悪いとかいうことは価値観依存的だからなぁ、なんて悟った顔してかまととぶるのは正しい態度ではない。

 

それではどこがおかしいのだろうか。①良い悪いは価値観依存的ではない。②価値観の射程が想定されているより広い。

①と②はどちらかを推し進めていけばもう一方が必要でなくなるような考え方であるかもしれない。物質だけからなる世界という考えを推し進めていけば精神が世界から排斥される、というような話と並行的に。

 

①そもそも、厳密に価値観によって良い悪いを規定しようとするとき、悪いは存在する余地がなくなる。「そんなはずはない、現に悪は存在するではないか」それは価値規定がまだ曖昧なところがあり、すべてを事前に決定するに足らなかったからだ。あるいは、出来事の発生する前後で価値規定自体が人知れず変化したのだ。変化するというのもやはりそれが曖昧だからに他ならない。

なぜなら、人間は、もし価値が曖昧でなく、余すところなく規定されているのであれば、それに反して悪を為すようなことはないからだ。人間は自由でないからだ。

人間は、規定された状況下にあるとき、良いほうを志向する。というより、規定されて我々が志向する、その方向が「良い」なのである。だからこの「良い」には本来対立項はない、同じ水準での「悪い」は存在しない。

これに対して、「現に悪がある」そういう人は我々の自由を根拠にするだろうか。この自由は無根拠である。規定のもとにある人間を、それでいてその規定を無視させることのできる能力、それが自由だということになるわけだが、ここでその規定から解放されるために別の価値規定を持ち込んでは自由にならない。いくつの価値規定に束縛されようと、どれだけ複雑に束縛されようと、「それにもかかわらず」自らを解放できると考えられなければならない。このことは単に自由概念の意味からそうなのだ。

つまりこの「自由」は無根拠だ。シェリングが『人間的自由の本質』で語る、真の自由概念を沈黙させる二つの誤った観念とは、決定論とこの無根拠な自由の二つである。

 

自由でないと言うと倫理的責任の問題が生じると信じている人がいるが、この無根拠な自由があれば倫理的主体であるといえるとでも考えるのだろうか。無根拠だけれども確かにある結果を私は引き起こした、その根拠は問えないけれども私がそうしたという事実に基づいて私は倫理的にその事態を引き受けよう、これが常識的にもっともらしい考えであるならば、私の行為は余すところなく価値観に規定されて為されたが、外ならぬ私がやったことだから私が倫理的に引き受けよう、こう言っても何の問題もあるまい。

倫理的責任というのがそもそも何なのか、そのことをこそ問わねばならないのだが、それについて確実であることは、我々が現に倫理的主体でありうるということだ。ここにさらに知識を付け加えることができるものは無根拠さの主張としての自由概念ではない。

 

①は良いとか悪いとかいうのは価値観依存的ではない、という常識はずれな主張である。しかし、価値観が全く曖昧さを含まないならば、全てのことは良く、悪は存在しない、したがって対立項を欠いた良いはもはや良いではないので、本当の意味での良いとか悪いとかいうのは価値観だけによって規定されるものではない。この点にこの常識外れの考えの正しさがある。価値観万能ではない。価値規定には曖昧さがある。

いや、価値観から離れて存在するものは何もない。そうも言える。そして、価値観というのはこの漠としたもの、それがどれだけ広大に広がっていようとも、どれだけ形がなかろうとも、それがそのあるがままで価値観だと呼ばれるのであるから、価値観が曖昧だということはあり得ない。これもまた正しい。重要な超越論的テーゼの一つに、「記号として対象化されたものに、隅々まで規定されていない曖昧なものはあり得ない」というものがある。これは「何であれ自己同一的であるものは存在する」というテーゼのことなのだが、「自己同一」のうちで記号化の果たす役割がもっとも理解するのが困難なポイントなので、これらのテーゼはなおさらに疑問を呼ぶ余地がある。

 

さて。もう我々は②「価値観の射程は想定より広い」という話に入り込んでいる。価値観から完全に開放されることはどんなものでもあり得ないとするならば、良いとか悪いとかいうことも価値観の内部での出来事だということになる。だが、それを言ったところで、それは「良いとか悪いとかいうのは現実的な出来事だ」程度の主張にしかならない。今度は「価値観」あるいは「価値規定」あるいは「文化」という言葉の意味が殺されるだけだ。

 

「価値観」が確たるものであれば「良い」が死ぬ、「価値観」が確固たるもののまま曖昧にしようとすると、結果は、それが曖昧になることはなく、ただ「価値観」が死んで終わる。

なぜこうなるかというと、これが先の超越論的テーゼへの挑戦だからだ。我々が対象として捉えたものは、曖昧であることは許されない。しかしながら、価値規定というものはどうしても曖昧でなければならない。

 

2018.10.01

【復刻】文化論2 creativityやoriginalityに関して

 

知識というのは一般的である。一般的というのは、「誰にだってわかる」ということだ。

原理的には誰にだってわかるものだけが知識と呼ばれうるので、私にしか分からないような何かは「狂気」として分類される。

そもそも私というのが一般的なのである。私にしか所有されえないようなものは頭のなかにも外にも存在しない。

先ほど狂気といったもの、それはフィクションでしかない。そんなものがあるとすればそれを狂気と呼ぼう、だがそんなものがないことは私たちみんなが暗に前提していることである。上で言ったのはそういう意味である。

ツチノコは存在するのか? ツチノコは存在しない。なぜなら、そんな奴は存在しないという全員合意の前提がツチノコのイメージの一部をなしているからだ。ツチノコっぽい奴が見つかったとき、「以後それをツチノコと呼ぶことにしよう」というツチノコイメージの変化を一度経由しないことには、ツチノコは存在するようにはならない。つまり、「いま私たちがツチノコとして考えている奴」は決して存在しない、が、「私たちが今ツチノコという言葉のもとに考えているわけではないツチノコっぽい奴」なら存在しうる。そして後者がいつの間にか「ツチノコ」になっているという事態はあり得る。

フィクションとして想定されたものは、まさにフィクションですよというそのアナウンスのゆえに存在が不可能になる。ツチノコしかり、ユニコーンしかり。そして狂気と呼んだもの、つまり「私だけの考え」「私だけの感性」「私だけの魅力」etc.もフィクションなので、現実には存在しない。

(なお、存在しないというのはそれ以上でもそれ以下でもなく、存在しないということしか述べていない。人はフィクションで生きている。その意味なおありや否や、というと、あるに決まっているのである。フィクションならそれについて語ることも全く意味がないのだと考える人は性急でいけない。しかし実はそういう人間を頭の中で勝手に想定した私が性急なのではなかろうか。)

 

もしかしたら人がそうあって欲しいと思うような個性・独自性は、精神的なもののうちにはない。

精神的なものは完全に一般的である。

精神的なものの原理は簡略化して合一すること、そのように働くのが精神にとって真理であり善だからである。逸脱すること、個性的になることは単に精神が自身の本質を誤解することから生じるものであるが、それは精神的なもの一般の原理に反するものではなく、何か別の面を簡略化して統合するためのしわ寄せみたいなものだろう。より個性的になっているようでいて、別の面でより一般性を増しているのである。

 

人の創造性や独創性というのは、その人がどれだけの一般性に到達したかによって測られる。

芸術にしても小説にしても、人に分かられなければ何物でもない。分かられ可能性が開けていなければならない。

分かられ可能性の開けていない、一部の人にしか分かられないような作品は、それでも原理的には全ての人に分かられる可能性が開けているわけだが、そのために特殊な前提をいくつも積み重ねてそれに接さなければならない。特殊な前提のもとでしか理解されない主張は世間では間違っているとみなされる、というのはご承知の通りである。芸術だって同じで、より真であるものやより間違っているものがある。そして、間違った作品しか作れない人は、その特殊な前提にまだメスを入れる能力がないので、より正しい作品に到達できないというだけなのである。

分かられ可能性というのはこういうもので、より普遍的で一般的な作品ほどその作者の個性があふれているとみなされるものなのだ。

 

何が言いたいのかというと、何かを為そうとするときには私の恣意性というものを消し去りたいね、という話。

 

2018.11.21

【復刻】哲学4 ツチノコについて

 

どうにも彼には予告なく仕事を放棄する癖があるので、彼はまるでそれを放棄するその時のためだけに仕事をしているかのようであった。

仕事を投げ出すのはどんな時か、と言っても決まっていない。どんな理由によるのか、と聞くのはさらに野暮である。あらゆる出来事、とくにそこに人間の精神が絡んでくるとなると必ずその背後に特定の理由があるのだと思いたがる、そういった素朴因果論的な思考の型にはめられることを彼は喜ばない。といってそうした素朴因果論を拒むのは、彼が自身を自由な人間だと見做したいからなのでもない。実際、彼は自由などは言葉だけのものに過ぎない空想だと考えている。つまるところ、真実は分からないものだ、ということを彼は他の人間よりも分かっているつもりなのであった。どんなことにも原因があると考えるのも、人間の精神が関わるところには自由が顔を出すと考えるのも、どちらも素朴だ。素朴だというのは、人間が自分たちに理解できるような仕方でとらえた限りでのDingeに過ぎないということだ。真実は捉えられるが、何となれば人間によって、他の何者によってよりも上手く捉えられるだろうが、人間が捉えるものは真実でも、捉えられたものはもはや真実ではない。

なぜ、ツチノコが存在しないのか。ツチノコはこの世界には存在しない。もしも将来胴の太い短い蛇のような新種の生き物が発見されたとして、そしてそれが俗に「ツチノコ」と呼ばれるようになったとして、それはツチノコが実は存在するということを意味するのではない。「ツチノコ」という語の意味が変わったのだ。なぜならツチノコは存在しえないからだ。なぜ存在しえないのか。それは、ツチノコは空想上の生き物であると認められているからだ。空想上の生き物が現実に存在するということはない。それは記憶の中にしかないものが二度と現実のものとはならないのと同様である。空想上のものは観念のうちに存在している。現実的なものが観念のうちにそのまま入り込んでくるということはありうる。言い換えれば、完全に現実的な観念は可能なのである。一方、観念がそのまま現実に飛び出していくことはない。完全に観念的な現実は不可能だ。ツチノコはこれまで一度も完全に現実的な観念となったことがない。多かれ少なかれ、人間の想像力によって作り出されたものだからだ。したがって空想上の生き物でしかないのであり、それが現実に飛び出して、なにか現実的な対象、たとえば新種の蛇など、と結びつくことはない。

人間の素朴な思考の型を信じないというのも同じ理屈なのである。素朴因果論も素朴自由論も、言ってみれば人間用の枠組みだ。それは空想の世界を描き上げる絵具なのであり、神話を紡ぐ言葉なのだ。それがそのまま真実の世界に飛び出すということはない。素朴で、洗練が足りていないことが問題なのではない。どれほど丁寧に描かれたツチノコでも、それがより現実的になったということは言えても、いよいよ現実そのものとなったということは決して言えない。

作り物が動き出すのは古来よりの人間の夢である。ピュグマリオンとガラテアの神話にあるような、見事に作り上げられた像が生命を得て現実となるということは、観念的なものがいつか現実に到達できることを願う希望なのであり、それは全く正しい希望であるけれども、もはや私たちはこれを否定しなければならない。否定するところから始めなければならない。

これを為すのは新しい啓蒙の仕事である。啓蒙というのはもはやかつてのように新しさと知性と善さを備えた営みではない。啓蒙するものとされるものとは、実は昔からそうだったように、同じ地平に立って相対的に存在するのだ。啓蒙する者たちは啓蒙されるべき者たちのところに自然と湧いて出るように現れるものであるし、啓蒙される者たちもそれだからといって完全に感化されて習慣を改めるということはほとんどない。啓蒙する者たちは、そのうちで最も謙虚な部類の人でさえ、少なくともほんのわずかには自分たちのほうに正しさの分があると考えるし、啓蒙される者たちはその反対側の人々の声のうちに彼らが思うほどの正しさを感じられずにいる。この両者はともに同じ地平の上にいるのだ。正しさがどこにあるのかというなら、この現実こそが正しさである。啓蒙の声は導かず、人は動かず、声は嘆き、人は苦しみ、声は怒り、人も怒る、この現実である。

 

かくして、彼は現実を真実だとみなすひときわ目立ったリアリストなのであった。しかし同時に気付いてもいるのは、彼が自身をリアリストと見做すがゆえに現実は正しさを失うであろうということである。彼は現実を信仰している。しかし彼が何を信仰しているか彼自身に分かったとき、もはや何一つ信仰できなくなるであろうことを彼は知っている。そして、それも仕方のないことだと彼は思っている。彼の自由にはならない。知性は触れられるものをいつまでもただ見ているだけにはできない。それは必ず手を伸ばし、そして正しいものを捉える。人間が捉えるものは真実でも、捉えられたものはもはや真実ではない。釣り上げられた魚が死んでいくように真実も網の中で死んでいく。

だが彼は止まらずともよい。止めずともよい。何もしなくてもよい。前進しなくてもよい。予感が彼をして動かすのであった。予感が、彼をして唐突に仕事を放棄させるのであった。

 

2019.02.03

【復刻】哲学3 いわゆる演技

別の記事を書いていたら脱線してしまったのだが、元の話題とあまりにかけ離れてしまったので独立して出すことにした。

社会的な振る舞いの多くは演技だ、という話である。「演技」とは何か。第一義にはおそらく役者が舞台上でなす振る舞いのことだろう。しかし私たちはみんな役者でもないし舞台上に立つわけでもない。舞台というのを「人前」だとみなせば、なにかスピーチしたり体験談を話したりプレゼンしたりなんかの機会は多くの人がいつかは持つこともあろうが、そういう広い意味での「舞台」上での振る舞いだけが演技と言われるのではない。

役者の振る舞いから転じて、「ただ見せかけのために行為すること」という意味合いが演技に含まれるようになった。ここで、この派生的な意味と第一義との間に意味の逆転が生じているのが見て取れるだろうか? つまり、役者さんは、確かに舞台の上でフィクションのために行為をするが、本当の演技は「ただ見せかけのために」為されるのではないのだ。時計台を見上げるという演技をするとき、役者は本当に時間を確認するために見上げるのだ。ただ首の角度を上げるだけじゃない。役者はフィクションに殉ずる。一方で、日常的な演技には意味がない。それはただの社会的な合意に基づく形式的テンプレートである。

 

人間が生まれながらに自己意識を持っているのではないということを考えれば、演技がある意味ではとても「自然な」ものだという風にも見えてくる。自己意識というのは社会の中に赤ん坊を放り出して時間を置くと芽生えてくるものだ。自己意識とは、だからまずは社会的に開始される。もちろんそれは初めから終わりまで社会的なものであることは間違いないのだが、それでも成長するにつれて自分自身を発現させても構わないスペースを見出すようになる。そこに自分自身を表現するようになる。その部分があなた自身の本来の「自然」だとみなされる。

この社会的に許容された隙間に生じた本来のあなたがどれだけ確たるものになったかがその人間の成熟度である。だから、何につけてもテンプレートなリアクションしかしない女子会の女の子たちは「若い」とか「幼い」と言われる。

若いとか幼いと言われる人たちは、自分が社会的な演技をしているということを自覚せずに演技をする。彼らはテンプレートな形式をなぞる以外に適切な振る舞い方を知らないのだ。そういう人間は話す内容さえ演技である。バイト仲間で集まっているときによく店長の悪口を言うだろう、あれと同じである。別に店長が特別悪い人だというわけではないし、バイト君も本当は店長のことを悪く思っているわけではない。ただそういうテンプレートがあるのだ。

じつは、世の多くの悪口というのは単なるテンプレに過ぎなかったりもする。愚痴り方には形式がある。愚痴るという行為がある集団にもたらすメリットについて考えたことがあるだろうか? 愚痴るというのは、もちろんその愚痴が仲間に共有してもらえると期待して愚痴るわけだが、共通の敵を作り出すということだ。共通の敵というのは、私の考えでは、ある集団の存在する最大の理由である。あらゆる集団は(とまで言っていいのかは分からないが)ある別の集団の敵であることによって成立している。たとえばツイッターである女性が上司のセクハラを糾弾し、10000リツイートに達したとしよう。ここにこれをリツイートした10000人からなる集団が形成されるわけだが、この人たちは正義を共有する10000人の集団なのではない(本人たちはそう思ってるかもしれないが)。ただこの女性の上司に敵対することだけを共有する10000人なのだ。集団とはそういうものだ。

集団の中で愚痴るということは、だからその集団に自分が帰属していることを確認すると同時に団結を深める有益な行為としての側面がある。この側面を無視してただ「愚痴ばかり言う人間は嫌い」と仰る立派な方々も多いが、それは独善というものです。よく愚痴る人は、「悪い人」ではない。ただ若くて幼いのだ。悪い人ではないというより、自分の意志をきちんと把握できていないので、悪い人にはなりえない。悪いことを意志すればこそ本物の悪人なのだから。愚痴ばかり言うのはやめてほしい、なんていうのも他力本願だ。そういう形式ばかり採用させるその環境がよくない、そういう面もあるだろう。

 

形式的テンプレートとしての演技と、作法とは似ているようでいて真逆だ。なぜ真逆なのか。ただの無自覚な物まねでは作法のレベルにまで昇華させることができないからだろう。テーブルマナーにしても、茶や剣の道にしても、スポーツマンシップにしても、それは自覚的に統制された行為でなければならない。冒頭で述べた役者の「本当の演技」だってそうである。自我の足りていない無邪気な人たちにはこれらの「道」は極められない。だからこそ、これらが独自の教育的効果を持つのである。

 

今、「教育的」といったが、無自覚に演技ばかりする状態から自覚的に振る舞う一人の人間へと変化させることは、いいとか悪いとかは抜きにして、やはり教育の仕事であろう。「考える力をつける」こういうことを言う人にもし考える力があれば、どのような教育が効果があるのかということは理解ができるはずである。

若いとか幼いとか言われるのは、何も青少年に限られた話ではない。大人、それももう高齢者と言われても差し支えない人にもこういう意味で若い人はいるのだ。それが悪いと言っているのではない。しかし、昨今の流れとして、このような若さは歓迎されない風潮があるということは言えるかもしれない。しかし、自分がまだ本来の自分というものを培うことができていないのに、子供のそれを養うことはできないだろう。まずは自分自身を十分な程度に養うところから始めなければならない。

何の話をしているんだろう。

 

 

2018.12.14