【復刻】倫理2 なるようにしかならない
なるようになり、またなるようにしかならない
人事を尽くして天命を待つ、という。
私は、なぜ君は人事を尽くすのですか、と疑問に思う。
なるようになるということの本質は、なるように「なる」というところだ。なるように「する」ことでは全くない。
なにごとも「なる」なかで、「人事を尽くす」と言うのはまたおかしな話だ。尽くすか尽くさぬか、それすらもなるように「なる」ということではなかろうか。
自由でない、というのとは違う。
自由も不自由もともに包摂する「なる」がある。
それならば私は何もしなくてもよいのか、ただ家でひねもすごろごろしておればよいのか。
なるようになるに任せていれば、人間は堕落するかのように思われがちだが、この考えはなるようにしかならない思想を不当に弱めている。
もちろん君のごろごろした怠惰な生活は、なるようになった結果であるが、それはアイツの華々しい活躍がなるようになった結果であるのと全く同じだ。
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教育上の配慮といって、「なるに任せていれば人は堕落する、見ろ、あの輝かしい成果はなるようにしかならないを意志の力と努力で克服した結果なのだ」という考えを植え付けようとする世間という存在がある。
この教育的配慮というものは欺瞞に満ちている。
第一に、一方で「なるようにしかならない」現実というものがあり、他方で「人事を尽く」さなければならないという要請がある。しかし、先にも言ったように、「なるようにしかならない」ということは人事を尽くすか尽くさないかということまで含めて、なるようにしかならないということなのであり、人事を尽くすか否かはひとえに個々人の意思の問題ですなどと言うわけにはいかないので、この「人事を尽く」さなければならんという要請は端的に矛盾しているように見える。世間は簡単に人事を尽くしましょうと言うが、実際この矛盾について考え抜いてそう発言する人はその中に何人もいないので、これは教育上のあるいはより良い社会のための発言だと思っていれば、自分自身本気でそれにコミットしているわけでもないという言い訳が、最後の一線のところで、できるのである。
第二に、教育者というのは一般に、教育される側がよもや自分の世界を超え出てくるだろうなどとは考えもしないものである。それだけではない。教育するというのは多くの場合あえて疑問を黙殺するということでもある。「なるようになるではいけない、人は自分の意志の力でがんばらなければいけないよ」と繰り返し言ううちに、自分の意志すらなるようになるのうちに含まれているのではないかという疑問を封じ込めてしまう。それでいて何事か良いことを伝えた気になっているのである。
私は今、怒りを込めて書いているのだろう。おそらく、私は被害者だったのだろう。上の矛盾を解いてくれるような優れた教育者は私の周りには存在しなかったからだ。しかし私はもはや私が接してきたほとんどの教育者以上にこれらの事柄に関する概念地図を手に入れてしまったので、いまでは自分がそれを解消する側にならざるを得なくなり、被害者だと名乗ることもできなくなった。
そのようになってわかることは、少なくとも私を教育した人間はみな、この問題を解く力がなかっただろうということだ、また解いてもいなかっただろうということだ(解いたけれども人には言葉では伝えられない問題というのもありうる)。
答えられるべき問題は次のようなことだ。「何事もなるようにしかならないなかで、どのようにすれば私は「人事を尽くす」ことができるのか」。これは、なんだかんだ言ってもやっぱり「人事を尽くす」ことは良いことだという点では私も同じだ、というのではない。むしろ、「人事を尽くす」とは何か、が分からないのである。「人事を尽くして天命を待つ」には一定の真理がある。このことは私も同じように、あるいは下手したら世間以上に、認めている。では、「なるようにしかならない」と矛盾せずにこの真理性を汲み取れるような「人事を尽くす」の意味は? これはほとんどBradleyの倫理学におけるSelf-realizationとは何か、というのと同じ問題だ(Bradley倫理学なんて知らない?それもそうか)。
問題はこのようであるので、私に関わった教育者の誰も満足に答えられないことは当然ではある。しかし私は、疑問を疑問のままにしておいていただきたかった。「ともかくまぁ人事を尽くすことが大事なんだよ」で解決したつもりになってもらいたくはなかった。教育される側は教育者の世界を初めから超え出ているものだ。教育者は自分の世界に落とされた彼の影を眺めることができるに過ぎない。自分の世界から知識を引っ張ってきてなんでもかんでも教えられると考えてはいけない。
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一部、疑問に持たれた方がいるかもしれない。「現実はなるようにしかならないって、なんでそう前提しているの? 「なるようにしかならない理論」が正しいかどうかは証明されていないのでは?」
確かに、「なるようにしかならない理論」は証明されていない。だから、現に世界がなるようになって、またなるようにしかならないのかどうか、そこのところは実ははっきりしていない。
はっきりしていないけれども、なるようにしかならないと考えることに全く矛盾はないように見える。同様に、何事もなるようにしかならないとは限らないと考えることも矛盾を引き起こさない。つまり、どちらも真なのである(どちらも真「でありうる」ではない、どちらも真なのである)。
私たちは、どちらも真である二つの主張の間に立って、自分の都合のいいようにある時は一方を採用し、ある時はもう一方を、という風にすることはできない。なるようにしかならない理論と通俗的な意味での「人事を尽くす」こととは、何度も言っているように、矛盾する。にも拘らず、「人事を尽くしましょう」と言っている人たちは、このなるようにしかならない理論の真理性を端的に無視し、その逆の「なるようにしかならないとは限らない」理論の真理性だけを強調している。確かに「なるようにしかならないとは限らないよね」という考えも真なのであり、そっちの側面だけを見ている限りでは、通俗的な意味で「人事を尽くす」ことは何も矛盾ではない。
教育者はもしかすると、「私は賭ける、世界が「なるようにしかならないとは限らない」ものであることに」というかもしれない。しかし、賭ける賭けないの問題ではないのだ。賽はすでに振られてある。
結果は、「世界は「なるようにしかならない」であり、また「なるようにしかならないとは限らない」である」。
先述のように、教育者は最後の一歩のところで自信を自身の主張にコミットさせないという離れ業が可能であるので、私は賭けているんだという何の支えにもならない考え方に頼ってある程度満足していられるのかもしれない(なんだか教育者の悪口のようになっているが、そうではない、教育者は立場上そうなりがちなのだ)。しかし教育される側からすると、先生が賭けたとかそんな個人の信条に属する事柄はどうだってよい。信仰というものはこのように恣意的なものであってはならないし、恣意的な信仰によっては理性は満足しないものだ(信仰は理性を規定する、と言われる(再びBradleyによると)。しかし、そのとき信仰は理性を超えてくるので、「私はOOを信じる」と言うことはできなくなっている)。
同じ批判が私にも飛んでくるかもしれない。私も一方の側に恣意的に与していると非難されるかもしれない。
つまり、私は「世界がなるようにしかならないのは事実なのに、人事を尽くすとはどうすればよいのか」と言ったわけだが、「お前だって勝手に「なるようにしかならない理論」だけを正しいとみなしてるじゃないか」と言う人が出てくるかもしれない。
答えよう。世界は「なるようにしかならない」し、また「なるようにしかならないとは限らない」わけだが、「人事を尽くす」ことと関係があるのは世界が「なるようにしかならない」という事実だけであって、もう一方の面は「人事を尽くす」こととは関係がない。だから私は関係のある事実だけを取り上げて述べているのだ。
世界が「なるようにしかならないとは限らない」ことが、人が「人事を尽くす」ための条件だと考える人がいるかもしれない。もしそうだとすると、世界が「なるようにしかならない」ことは、「人事を尽くす」を不可能にしてしまうのだろうか? 通俗的「人事を尽くす」概念に従えばそうだろう。しかし、そうだとすれば、世界が現に「なるようにしかならないとは限らない」と同時に「なるようにしかならない」以上、「人事を尽くす」ことはできなくなる。
AはXを可能にする条件だ。一方で、BはXを不可能にする条件だ。さて、今AとBがどちらも成り立っている。Xは可能か、不可能か? →不可能。適当な例で考えてみてください。
私は、「なるようにしかならない」世界の中で、「人事を尽くす」ことができると思っている。そしてその意味で「人事を尽くす」ことが「人事を尽くして天命を待つ」の本当の意味、本当の正しさを表していると思っている。だから、その限りで、「なるようにしかならないとは限らない」が「人事を尽くす」の条件かどうかということはここでは関係がない。
一般に、世界が「なるようにしかならないとは限らない」からといって、それと「人事を尽くす」こととの間にどんな関係があるのか。世界が「なるようにしかならないとは限らない」のは私たちが「人事を尽くす」からだと考えているのだろうか?
一部の自由を論じる人たちにも同じおかしさがある。世界が決定論的でないとしたら、そこで決定論を打ち破ったのは他でもない人間の自由だ、と考える人たちがいる。私たちが自由だからこそ世界は非決定論的なのだと思っている。なぜ? 私たちが自由だとか自由じゃないとか全く関係なしに世界が非決定論的かもしれないじゃないですか。
「だいたいにおいて決定論的な世界のなかで、ただ一つ非決定論的な要素が人間の自由だ。だからこそ自由な人間は素晴らしいのだ」と言いたいがために、自由だけが決定論を打ち破る要因だと想定したくなるのかもしれない。このような願望によっては世界の事実は動かない。
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私は今日はこういうリクツっぽい話をしたかったのではない。もう少し切羽詰まっていたのだ。単に被害者としてでなく、回答者としてやや切実に回答すべく迫られていたのだ。
しかしどうでもいい話を延々自分自身にして聞かせているうちに、実践的要請の声が遠のいていってしまった。
呼べば戻ってくるやろうか?
不思議な話である。
全て、およそ、どんなことも、現になるようになって、なるようにしかなっていないのに、それでも私は何かがんばらねばならない感じがする。私の人格をかけて何かを決めなければならないような気がする。
「何も考えずにえいっと飛び出しなよ」
嘘だ。君は何も考えていないのではない。私と違う何かを考えて、しかしそれを言葉で表現しないで、ともかくえいっと飛び出したのだ。
「考えすぎてはいけない」
逆だと思う。私は考えなさ過ぎているのだ(周りにそう見えなくとも)。あるいは、私は事実の一面のことだけを考えすぎているのだ。ノイズキャンセリングがどうやって成り立っているか知っているかね。外からくる音に、それを打ち消す波長の音をぶつけて消しているのだ。なにも鳴っていないのではない。むしろガンガン鳴っているのだ。私はガンガン鳴らしきれていないので、結果的に一方の音だけがうるさく聞こえてしまう。
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「さぁ、まぁ、とにかくもうスペースがない。それこそ人事を尽くして天命を待とうではないか。」
『何を言っているか。私はいつでも人事を尽くしているよ。』
「本当かい?」
『ほんとだとも。私は「人事を尽くす」ということの意味を、少なくとも理論的には、よくわかっている。私たちはいつだって人事を尽くしているし、そうでないはずがないのだから』
「それじゃ「なるようにしかならない」と同じだねぇ。「人事を尽くすようにしかならない」ということだからねぇ。」
『その通りだ。「なるようにしかならない」し、人事を尽くすことも「する」ものではなくて、結局「なる」ものでしかない。そしてそのことを私たちは「知っている」のだ。』
「すると、何が問題があるんだい? どこで悩んでいるの?」
『うん、私が「やるべきことをやる」とか、「やりたいことをやる」とか、何かを主体的にやろうとするとき、つまり行動を決定するとき、私は…。それを決定する明日の私は、きっと人事を尽くしてやるに決まっているのだけど、そのことは私も疑っていないのだけど。今の私に決められないことを、明日の私が決めるとして、今の私はどうしてそいつのことを信じられるだろう?』
「だけど、疑ってないって言ったじゃないか」
『うん、言った。どうして私は信じているのだろう?』
2018.10.07
【復刻】倫理3 ナルシストを極めよ
自分のことを嫌いという人がいるが、そういう人に限って自分というものをがっちり掴んで離さないものだ。嫌いなら離れればよかろうに、と思うのだがそういうわけにもいかないらしい。
また逆に、自分のことを自慢げに話す人は、自分のことが好きなのだと自他共に認めているかも知れないけれど、自分を好きでいる仕方が必死なので「好きだ」というより「好きでいたい」とか「好きでいなくちゃ」と思っているのではなかろうか、と思われる。
★★★
どちらも、絶望しているのだ。「絶望」、いい概念を覚えてしまった。キルケゴール『死に至る病』、ぜひ読んでほしい。
およそ絶望していない人などいないが、自己自身というものについて考えを巡らすと私たちは途端にあからさまな仕方で絶望してしまう。「私は絶望したりなどしない」という人は、そう言った途端に自分の言ったことが疑わしくなって絶望してしまう。
絶望しかない、世の中。
およそ、自己愛というものはやばい。これはまぁかなりやばい。ある人によると、自己愛というのは根源悪である。中島義道『悪について』。
★★★
自分のことを好きだとか嫌いだとかいうことが有意味であるかのように取り沙汰される。ことによっては「自分のことを好きになる方法」などと言って、まるで自分のことを好きでいるのが良いことであるかのように宣伝させたりもする。
自分が嫌いとか好きとか言う人たちの間に、どれほどの違いがあるだろうか?
好きという人も嫌いという人も、同じ穴のムジナである。自分というものが分裂しているのだから。
好き嫌いというのも無責任なもので、好きと嫌いとは最も遠く隔たっているのではない。むしろ両者が互いに接近して、ギリギリのところで見極めようとすればするだけ、強く好きになったり嫌いになったりする。それだけよく見極めようとするのは自分がとても強く関心を持つものに限られる。
だから、好きと嫌いとは肉薄しているし、とても好きととても嫌いとはもっと肉薄している。だから、賢い私たちは好き嫌いを判断の根拠にしたりしないほうがいい、たとえ恋愛事に関してであっても。
自分が分裂しているというのは、あっちに分裂した自分、こっちに分裂した自分を見てる自分がいるということだ。もちろんそんなことは起こり得ないのでこの図式はどこかおかしいのだが、自分について何かを思う、セルフイメージを持つ、というのはこのおかしな構図の上でのみ語りうることだ。
そう考えると、いまは世の中をあげて自己の分裂を促進している。それによってまた気づかずに絶望している人も数え切れないほどである。
分裂は、しかし、必然的である。絶望していない人間というものはいない。
本当にストロングな仕方で自分を肯定するためには、何かと理由をつけて「自分を好きになる方法」を実践しても仕方がない。分裂が進むばかりだ。
自分が好きとか嫌いとかいう境地を抜け出なければいけない。本物のナルシストはそこからしか生まれない。必死になって自慢話をするような人はまだまだナルシストとしてはにわかである。
2018.10.14
【復刻】倫理4 謝りたくなる心の弱さについて
謝りたくなる心の弱さ
人として、どうしても謝りたくなる時がある。わかる。
また別に謝りたくないけど謝らないといけないときもある。
謝るというのは極めて倫理的な行為のように見える。私が、私の人格(人格が倫理の舞台である)について非を認めるから謝るのだ、と、こういう風に理解される。
もちろんそうでない謝罪もたくさんある。とりあえず謝っとくということで謝ったり、何らかの意思表示のために謝ることが必要だと考えられているからという理由だけで謝ったりすることがある。こういうのは謝るの社会的な側面である。社会的行為としての謝るである。
社会的(および法的)な領域と倫理的な領域の区別が必要だと思っている。ここが区別されなければ、倫理的な問題を話題にしたいときに社会的・法的な事実を持ち出して反論されるというようなことがよく起こる。
この区別は、たとえば責任概念を議論するときなどに持ち出される。人は法的責任を持つので、科された刑罰などを受けなければならない。また社会的責任があるので、立場に応じてふさわしく行為しなければならない。さらに倫理的責任があるので、悪を為してはならない。
この区別の根拠をなにか示唆したほうがいいような気がしてきた。なので少し考えてみた。が、何も思いつかない。そうなってるでしょ、という感覚だけである。こいつは役に立たない。何か思いついたらそのうち話題にするかもしれない。
★★★
社会的(および法的)と倫理的との区別が十分に受け入れられたかどうかは分からないが、たぶん十分ではないだろうと思うが、ともかくそれを前提にして話を進める。説明を等閑にするというのは、十分な理解を得ようと思って心して読んでいる人にとって何という不遜な態度か、と思われるかもしれないが、教育課程の途上にある人間に対してはともかく、いったん自分で思考することを開始した人間にとっては、書いてあることを十分に理解しなければならないという規範的な観念はさほど重要ではない。
謝るということにも社会的と倫理的の両面がある。謝罪という行為がもし法的拘束力をもつなら、これに加えて法的な側面もあることになる。
社会的な謝罪というのはわかりやすい考えだ。謝るがもたらすもろもろの人間関係上の影響は社会的謝るの効果である。
私たちは倫理的にどんな状態であっても社会的謝るをすることができる。負い目を感じなくても謝ったりはできるし、逆に謝るなんかじゃとても足りないと思いながら、それでもそれくらいしかできないからと謝る場合もある。
それでは倫理的な謝るとはどんなものか。
おかしなことを言うようだが、私の考えでは、人は倫理的に謝ることはできない。
先に、謝るというのは「自分の人格に非を認める」ということだと簡単に規定したが、倫理的な意味では、自分の人格に非を認めて謝る、その行為主体が何者なのかが問題となる。この行為主体こそが、非ありとされたその人格でなければならない。そうでなければ謝るということが意味をなさない。
自分の人格の非を認める、はい、認めました、私はばっちり認めました。そんなことはできない。その人格は何らかの行為を完全に遂行できるほど立派なものではもはやないのだ。
自分には非はありますが、それを認めているだけ私は立派でしょう? いや、立派に謝ろうとするなんて、あなたは自分の非を認めていないのです。謝るその瞬間には少なくとも、あなたは完全に自らの非から目をそらしている。
私は、自分の罪から自力で逃れられるほど力強くないが、しかし自力で逃れられないことが非のあるこの私のせめてもの誠実さだともいえる。
「どうしたら許してもらえるの?」なんてセリフがあるが、社会的にはどうか知らないが少なくとも倫理的に許してもらえる方法はない。
非を認めるというのは苦しいことであり、そうやって苦しむことだけが非を認めるという行為である。その意味で、しいて言えば、倫理的な謝るとはただ苦しみ続けること、それ以外ではない。
苦しいから謝って楽になりたい。それはできない。「苦しんだら許してあげる」。
こういうことを書くと、やはり田辺元『懺悔道としての哲学』を読まなければという気になる。田辺は、人間の非は自力ではどうしても乗り越えることができない、ただ懺悔しなきゃいけない、すると他力へと導かれるとかいう、それだけだと大乗仏教のような話を哲学的にしている、らしい。戦後の著作なので、戦時期の知識人としての懺悔が表明されている、らしい。
人として、どうしても謝りたくなる時がある。わかる。
だが人は、倫理的な意味では謝ることができない。ただ自分の犯したことに苦しむしかできない。
これは、救いを求めてはいけないとか救われてはならないということとは全然違う。救われるかどうかとは別として、私たちは、誠実さにかけて、苦しさに負けて謝ろうとしたりしてはならない。そこに留まらなければいけない。
★★
ところで、それとは別として、こうした倫理的な話をすることは、それ自体倫理的じゃない。倫理的じゃないと思う。
私は極めて不道徳なことをしてしまった。今日は徳を積まなければならない。
…などといって自らの非を認めようとしてしまった。それをしてはならないといったばかりなのに。今日はもうどうしようもない。死ぬかもしれん。
2018.10.15
【復刻】倫理5 孤独について
孤独の時代
人は倫理的には孤独である、という主題について考えてみたい。
これは現代的なテーマであるような気がする。
今の日本に哲学があるかどうかといわれると、即座には回答できない。その質問の含み次第で回答が変わってくるだろう。だがすべての時代でそうであるわけではなく、歴史的に見ればある時代のある国では、同じ質問に対して、確かにその含みを確認する必要はあるがまぁ間違いなく哲学はあるだろうと言われるような時代もあったろうと思う。そのことがすでに精神的希薄さを示していると言えば言えなくもない。だが精神的希薄さは恥じるべきことではないし、逆に精神的濃厚さが素晴らしさの証なのでもない。どちらも必然的に、ただそうあるべくしてあるのだ、という観点から見れば、ただそうあるべくしてあるだけのものでしかない。
そんな希薄な現代日本において、孤独が人知れず倫理的な主題となっている、ような気がする。
中島義道と永井均がこの時代にあって孤独について考えている。中島義道は人生に対してごまかしの少ない生き方を選んだ御仁であり、その苦しみをただただ伝えながら哲学する人である。あけすけであり、彼のいうことに基づいて周りがどんなことを考えるかについていつまでもオープンにしておく人なのだと思う。『孤独について』という著作があり、これは「生きるのが困難な人々へ」という副題がついているが、そこで積極的に孤独を受け入れることを推奨している。永井均は変な哲学者である。彼は時代背景や文脈などとは関係なしに出現して面白い議論を提出し、人々の思考のツボを刺激しておしまい、というような印象を抱かないでもないが、もしかすると彼もやっぱりこの現代の思想を代表する人間であると言えるような面があるかもしれない。孤独という問題との関わりでいうと、彼の「〈私〉論」が理論的な(または思弁的な)側面からそれを取り上げているという面がなくはないかもしれない。世界が実際にどうなっているかというと、この〈私〉、現に〈私〉から開けているのであり、そうでない在り方をしていたことは一度たりともない。そういう話をするのだが、関心が遠すぎて私はほとんど永井の問題点を理解できていない。
★★★
ともかく孤独というファッショナブルなテーマがある。
これは、何と言っていいのか分からないが、よいテーマである、そんな気がする。どうしてだか分からないが比較的成熟した精神のもとでだけ立ち現れるテーマだという気がする。
倫理的に問題になるのは、シンプルにしすぎるくらいシンプルに言えば、いかに悩むか、それだけである。悩むことのできる人間は倫理的であり、どこかで悩むということから距離をとった人間はもはや倫理的ではない。
人は倫理的には孤独である、ということの意味は極めて分かりやすく、人は悩むときには独りで悩むほかない、ということだ。
ここで重要なのは、倫理的であることが善いわけではない、ということだ。倫理的じゃないから悪いわけでもない。
倫理的であるひとは自らをそうでない人と比べて高潔で繊細だとみなしがちである。さながら清流に住むアユのような自分と比べて、非倫理人間の鈍感さ、考えなさを、川の河口付近に住むボラのようなものとして捉えてしまいがちである。
倫理的な人はそうでない人に比べて、苦しみに自覚的であるというのはその通りだろうと思う。倫理的な感覚を持たない人には理解しがたいようなものであることもあり、その不理解によってさらに苦しみが増すということもあるかもしれない。
しかし、倫理的な人間はその感性を決して手放そうなどとは考えず、倫理的じゃない人間になることを何よりも恐れながら、今日も正常に倫理的感性が機能していることに安堵して生きるのである。彼らはもしかしたら自分たちが生きづらさを抱えていると思っているかもしれない。しかし、何かに躓きがちであることと引き換えに自分が多くの人より優れた・誠実な感性を持っているという優越感を常日頃味わうことができるならば、決して生きづらいものだとは一概には言えない。
苦しみの中においてさえ、倫理的人間は苦しみを愛している。悩めるということは何よりも強力な自己肯定、自分が自分であるということの表示だからである。さらには、他人の苦しみに嫉妬しさえする。苦しんでいないならば自分は優れて倫理的な人間ではないことになりはしまいか、あの人より少ない苦しみしか知らないならば私はあの人よりより少なく倫理的なのではないか、と考えるのである。
倫理的な人間が抱きがちなこの高慢さは、それと自覚しても実際はそんなに悩みの種とはならない。確かに私は高慢である、だが、第一に、私が倫理的な事柄に関して優越感を抱くのは決して根拠のないことではない。この高慢さにはいくらかの事実が含まれている。第二に、私は確かに自分が倫理的人間であることを自らの誇りとしているけれども、同時に倫理的であること自体に価値があるわけではないことも理解している。倫理的に優れていることが善いという意味では決してないということを私は分かっている。もし私が自分を倫理性のゆえにいくらかでも「善い」ものとして提示したらそれは私の誤りである。決して私の高慢をなにかそれ以上の価値あるものの表明だとみなさないように。足の速い人が自身の俊足を誇っても、それで彼が自らの善さを示しているとは思わないではないか。どうかそのように私に対しても理解してくれるように。
★★★
倫理的な人間は増えてきている、と思う。
と同時に、倫理的な人同士で言葉と感情を共有しあったり、グループを形成したり、理解しあったりということを試みる人たちも多くなってきているのではないか。
悩みと向き合うというのは人が自由に行ったり行わなかったりすることのできるものではない。悩みと向き合うとき、その人がどんな人間であるかが問われる。向き合うことのできる人は向き合うしかない人なのであり、向き合うことができない人は向き合う必要のない人である。ここに、倫理的であることが善いや悪いの問題ではないと言われるゆえんがある。
悩みと向き合うことが意志だけによって操作できる類の問題でないのでこのようなことを言うのは無意味であるかもしれないが、苦しみ・悩みを自分だけの問題にしておけない人というのはまだ向き合い方の足りていない人である。
悩みは本来自分のものでしかない。Bump Of Chickenの『真っ赤な空を見ただろうか』という曲に「アイツの痛みはアイツのもの 分けてもらう手段が分からない だけど力になりたがる コイツの痛みもコイツのもの」とある。分けてもらうとか分けてあげるとか、分けてあげたいとか分けてあげられなくてごめんねとかは全てまやかし。
多くの人は倫理的孤独というものを事実として認めるところにまで至っていない。そこに至る難しさはしかし、むしろ本人の弱さよりも世間の側にある。世間が人にそれを認めないよう仕向けている。なぜなら世間は「悩み・苦しみを一緒に引き受けようとする態度」を「優しさ」だと規定しているからである。
だが、世間に促されて優しい態度をとるのは真の美徳だろうか。その態度は優しさの故にではなく、世間的規範のゆえにとられているものではないか。そんなものは美しさではない。
あなたの友人が苦しんでいるとき、あなたは世間へのパフォーマンスのために悩みを一緒に担おうとするべきではない。あなたの感受性に従わなければならない。もしあなたがその人の悩みのために本当に苦しくなったとしたら、本当に心に振動が生じたとしたら、それは同じ悩みを分けてもらったことによるのではなく、「力になりたがるコイツの痛み」が発生したのである。アイツの痛みとは別の痛みだ。アイツのではなくコイツのを悩むことが本当の優しさだったりする。
それじゃあコイツの痛みが発生しないときは、どうしたらいいのか。どうしたらもこうしたらもない。その時はあなたは苦しくはないので、その友人の悩みがどうでも良かったりあなたが実際に優しくなかったりしたのだろう。そのときあなたは優しい人だとみてもらいたいと思うかもしれないが、実際に優しくない以上、優しいですよという顔をするのは不誠実である。
なお、私はあなたが実際に友人に対してとるべき態度、語りかけるべき言葉についてしゃべっているのではない。あなたが自身に対してとるべき態度を問題にしている。あなたが友人の悩みに特別心を動かされなかったとき、自分自身に対して「俺は心を動かされたよな、俺はアイツのことを心配したよな、それで俺は俺の悩みを心に抱いているよな」と言い聞かせるのが不誠実だというのである。自分が優しくないのだと認めたくない、そういう恣意性は簡単に人の心に生じるが、そんな恣意性は真実とは関係がない。
だからやっぱり、倫理的孤独を認めないのはその人の弱さである。なんやかんやあって世間的に善いとされているもののせいで倫理的孤独を端的な事実として受け取れないと考える、その弱さである。そこで考えるのをやめて世間のせいにしてしまう弱さのせいである。
とはいえ、道徳とは元来「私のことを疑わないでね」と絶えず懇願してくるようなものなので、良い人であればあるほどそれを疑うのは難しい。その意味でやはり世間と道徳のせいでもある。
どちらのせいでもいいのだが、人は倫理的には孤独な存在である。その認識は人を悩み苦しみに正面から向き合わしめる。
苦しみを自身の苦しみとして真正面から向き合えば、その時もはや苦しみは苦しいものではなくなっている、とたしかエックハルトが言っていた気がするが、容易ではない。私はもっと真剣に孤独になることを私に勧める。
2018.10.28
【復刻】倫理6 私をして善ならしめよ
いい人だとか悪い人だとかいう言い方について。
人について(人の人間性、その中心となる部分を以下「人格」と呼びます)、それがいいとか悪いとかあるのでしょうか。このように問うとすぐにある種の極端な事例を考え出す人がいるかもしれませんが、たとえば享楽的殺人者とかそういうののことですが、そういう極端な例は私たちの生活圏にはとりあえずそうそう存在しないので話から除外しておきます。除外しておくのはこの人たちが私が述べることの反例となって私が例外とみなさなければならなくなるからではなく、極端な事例の特殊性につられて話が意図せぬ方向に引っ張られるのを防ぐためです。私はこれほど読者というものを信用していないのです。つまり私の話に都合が悪いからではなく、「でもこういう特殊な事例もあるじゃないですか」という言いがかり以上のものではありえないつまらない反論を避けたいがためにそういう人の話はやめようと言っているわけです。
言い訳をすると長くなります。結局話が全然進んでいない。もっと読者を信用することにしましょう(嘘です、私はあなたを決して信用しない、なぜなら私の語りを私が期待したいほどの水準で把握してくれた人はこれまでただの一人もいなかったからです)。
さて、人格について、それはよかったり悪かったりするものなのでしょうか。
何かを認識するには必ず「図式」的なものを必要とします、というのはカント以降の知識人のほとんどすべてが合意するところです。ここで、一つのとても根深い「図式」がありまして、それは認識の対象を「主」と「属」に分けて捉える、というものです。主と属、あるいは実体と属性、あるいは主語と述語、あるいは物質と色・香りetc、あるいは人間と性格。
つまり、ある人について、あたかもその人自体がいいとか悪いかのように言うのは、この図式の支配を受けている、そう私は言いたいわけです。その人間の中心にある核となるのがその人の人格、そしてその人格というのは優しかったりズルかったりするわけです。
Bradleyというイギリスの気怠い哲学者がこの図式を取り上げて言うには、こいつはappearanceだ、と、つまり完全無欠ではない、どこかで自己矛盾を来しているぞと、言っております。Bradleyは完全に気怠いおじさんなので、間違っているからといってこの図式を用いて考えられたもの全部よくないとか、この図式を使って思考しないようによくよく気を付けようとか、そんなことは全く考えない、ただ完ぺきではないぞ、そう述べるだけです。だからといって、これからは別様こんなふうに考えるといいぞ、と言うわけでもない。
私も、基本的に何かを提言したり、そんなことを考えているのでは全くありません。
が、ある人はその中心に人格を持っていて、それがあれこれ特性を備えているとみる思考は好きではありません。
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「根はいい人なんだけどね」
このフレーズが何を意味しているのか私には分からないわけですが(私に分からないフレーズというのは世にたくさんありまして、たとえば「自分のしたいこと」や「相手のことを考えて」など、よく分からない)、とりあえず「根のいい人」と「根の悪い人」がいるということが前提されていると思うのですが、根が悪い人ってどんな人なんですか。
普通の人は普通の状況が用意されていればある程度善良にふるまうわけです。一説によると、それは人間がある程度合理的だから、と言われることもあるでしょう。つまり、理由もなくよくない振る舞いをしたら周囲の人間に悪く思われて自分自身の信用という価値を損ねてしまう。何もないところではだから人はある程度善良にふるまうのが当然なのです。
根が悪い人というのは、それでは、上に述べた特殊な事例にあたる人たちのことでしょうか。私は、そういう人たちも別に「根」が悪いわけではなかろうと思います。よく言うではないですか、「犯罪なんてしそうな人に見えなかった」と。そういう人はたまたまある一度のきっかけを(こう言っては何ですが)ものにしてしまったがために犯罪を犯したのであり、もしその一度のチャンスをたまたまものにすることがなければ、犯罪なんてしそうにない人なわけですから、おそらく犯罪なんてしないわけです。そうするとその人の根はよいのか悪いのか、犯罪者になった場合は根も悪かったということになり、犯罪なんてしないで日々の穏やかな暮らしを継続している限りでは根もいいということになるのか、そういう花を見て根を判断するの原則が、「根はいい人」という表現には含まれているのでしょうか。それなら花だけ見ればよかろうと思うわけです。ここでは花は行為やその結果のことを指していたわけですので、良い行為だ、悪い結果を引き起こした、そういう風に言えばいいのであって、根すなわち人格にひきつけて善悪を語る必要はなかろうと思うのです。
犯罪者の話題に触れたので少し脱線。
今年は脱獄囚のニュースが二度ほど大きめにとあげられたような気がするのですが、このようなニュースの効果の一つに視聴者を怖がらせるというものがあると思っていまして、現に私も何度か「こわいねぇこんな人が近くに潜んでいたら」なんていう語りを聞いたわけです。
こういうセリフを吐く人がどこまで本気で言っているのか、多くの人は単に動物的な仕方で(思考を経由せずにその場の雰囲気のためだけに語りだされる言葉を私は、蔑みを以て「動物的な」語りと呼んでいるわけですが)言っているだけじゃないでしょうか。それとも本気で怖がっている人もやはりいくらかはいるのでしょうか。だって、脱獄囚より普通の人間のほうが明らかに怖くないですか。
だって、脱獄囚は目立つ行動はとれないわけですし云々……いやしかし、脱獄囚は金とか衣服とかに困っているから云々……そんなことを言えば貧しい人間はそこらじゅうに云々……いやいや犯罪者というのはもともと犯罪を犯す傾向が強くて云々……。
ここで述べられうるようなあらゆる理由はどうでもよくくだらないものなので、最終的には今日は平和だな、ああ全くだ今日は平和だ、で終わるわけです。脱獄囚が近くにいて自分がその人の再犯に巻き込まれるかも、そういうファンタジー的願望の発露だと思えばまぁかわいいものですが、しかし実際のところどうかというと別に刑務所経験も何もない私の周りの盆用たる隣人たちのほうがはるかに怖い、なにしろその数が多くて距離が近いわけですから。脱獄ニュースに「怖いねぇ」と応じる人が隣人に警戒心を以て応じないのは理不尽だと思うのですが、だからこそ「犯罪なんてしそうな人にみえなかった」になるわけでしょう。このセリフは言い訳に過ぎないわけです。何のための言い訳か? 脱獄ニュースに「怖いねぇ」と応じる権利を得るための言い訳です、世間並の思考停止を身体化させていることの言い訳です。
閑話休題シテ本題ニ復ス。
「根はいい人」の話でした。並の犯罪者では依然「根は」いいと言われうるかもしれないが、もっと極めて残虐な犯罪者だったらどうかという方向に話が向きそうですが、先に断っておいた通り、こういう特異な事例については話すことを避けさせてもらいます。個人的には、そういう人でも「根が」悪いわけではなかろう、というより「根が」悪い人間なんていないだろう、だったら「根はいい人」という言い方はそもそも無意味であろうと考えているのですが、そう主張するためにはいろいろ不足しているので、主にそうすることへの興味とかそれらが不足しているので、その主張はまたにとっておくことにします。
「根はいい人」という言い方も、結局「人格」と「それにくっついているもろもろの性質」という図式が根底にあるわけです、それでここでこの話をしたわけです。
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私は別によい人間でも悪い人間でもない。「その中間だ」と言っているのではなくて、ここまで辛抱強く読んでくださった方ならお判りでしょうが、そもそもよかったり悪かったりするものがそこにはない、そういう考えでいます。
こと一人称の人格に関しては、それを悪く思うことは苦痛であると同時に快感でもあります。私は悪い人間だ(だってそう思わずにはいられない)、そういう気持ちは根強いものです。しかしそれは考え方としては完全ではない、というのも私という確固たる常時不変の人格が存在するわけではないから、と考えたからといって、この根深い思考から簡単に抜け出せるわけではありません。
自分のことを悪い人間だ、と思うのは、一方では苦痛なのですが、一方では快楽です。言ってしまえば、その程度のレベルで自分を精いっぱい悩ましてあげられる代わりに、もっと深いレベルでの悩みには目を向けなくて済んでいるわけです。
しかしながら、さらに言ってしまえば、あなたが自分を悪く思っていて、そのことによって苦痛と快感を得ている姿は、あまり魅力にあふれてはいないのです。なぜというに、結局根底にある図式が完全でないので、それに強くこだわっている姿が美しくないのでしょう。
私はいろいろな性格を発現します。みんなそうであるはずです。
嫌なことをつい言いがちであるときもあれば、この夜で最もウィットに富んだジェントルなマンである場合もあります。
どこに身を置くかによって振る舞いが変わるのです。
つまり、私は、自分の人格が悪いとかいいとかいうことは信じていないので(このように信じることは強い自己肯定であります)、私の性格が悪い時、悪口を言いたくなったりするとき、私は今いる状況が愉快でないのだと判断します。
いい人になりたければいい人になれる環境に行きましょう。私をして善ならしめよ!
周りの人のことを判断する場合も同様です。
その人は別に悪い人ではない、にも拘らず口が悪かったりしたならば、あなた含めその環境がその人にとって愉快でないのです。社交的な人は表情を誤魔化す程度の演技は朝飯前ですので、愉快そうにしていても実は不愉快であるということもあります。本人すら気づかぬうちに不愉快していることも往々にしてあります。
人を信じるというのは、あるいは、すぐに人間の人格について評価するのでなく、その人間の多面性を信じることではなかろうか、そんなこんな話。
2018.11.20
【復刻】倫理7
私がよいと思うものをよいとするのは決して悪いことではないように思われる。が、これは一見してそう思われるだけで、よいものはよいとしてそれで収まるとして、それでは悪いものは悪い、遠ざけよう、そのようにすることもまた問題ないのであるか。
私が悪いと思うからこれは悪い、そんなことをはばからずに言っていると、お前は何様だということになる。そんなにお前は正しく判断できるのかと。しかしそれを言うならいいものを褒めるのだって同じく「何様だ」ではないか。
このように考えると、よいと思われるものも殊更によいと言わないほうがよいのではないかという気がする。よいと思われるものにも心惹かれないように気をつけておかなければならないような気がする。
人によっては、よいものをよいと思うことを積極的に肯定する向きがある。積極的に価値判断を下していこう、とくによいと思われるものについて積極的に肯定的な判断を下していこう、そういう姿勢の人間がいる。
人のいいところをたくさん見つけていきたい、またそれが楽しい、そういうのはきれいごとでないだろうか。
そういう人間の目にも、よいと思われるものばかりが映っているのではない。悪いもの、醜いものも映っている。よいものをよいと判断する場合には必ず悪いものを悪いと判断してもいる。よいと思われるものだけを言明して悪い汚いものにはあえて何も語らずの態度を貫くとしても、語らないことがそれを悪いとみなしていることの表明である。
それで何が問題であろうか。私が悪いと思ったものを悪いと言って何が悪いのか。
悪いのである。お前は全能ではないがゆえに。
あるものが絶対的に悪いということはない。それゆえ、あるものを悪いと判断するとき、その判断は常にある意味では間違っている。もちろん人が完全に間違った判断をするなどということはありえず、どのような判断も必然的であるから、多くの面でそれは正しい。しかしやはり別の面では間違いなのである。
それなら、全面的にとは言わないが、ある一面ではこれは悪いと判断することは許されるのではないか。なるほどそういったことが可能であったならばそれで良かったかもしれない。しかし悲しいかな、人は有意味な仕方で「一面的にはよいが、他面ではやはり悪い」と述べ立てることはできない。本当にできないのか。そう、できない。
まとめると、何かを悪いと判断するとき、それは常に間違っているに違いないので、その判断へのコミットメントは極力控えるべきだ、というのが拙論である。
間違った価値判断へのコミットメントは控えるべきだ、そういう前提がここにはある。なぜこのように前提されるのか。
これは、このように感じる人間の内側からしか説明されえない。なぜ「私が」このように感じるかというなら、不肖私が「倫理的」だからであり、このように感じない人は(私が常々問題にするような意味で)倫理的ではないことになる。これが倫理的な人間の内側からしか説明されえないというのは、その内側をいったん離れてしまえばこの前提自体妥当でなくなるということでもある。間違った価値判断へのコミットメントは控えるべきだ、そのように言われてピンとこない人にとっては、この命題は妥当ではない。つまり、そのような人は価値判断が間違っていようが正しかろうが、自分にはそう感じられるという理由だけでコミットするに十分なのである。
人は基本的に倫理的である必要はない。「なぜ人は倫理的であるべきか」巷にはそういう有名な問題があるそうだが、この問題はそもそも不当な問いであって、別に人は倫理的である「べき」ではない。現実としてそうだったりそうじゃなかったりするだけだ。
そういうわけだから、そもそも話がピンとこない人がいてもおかしくはない。間違ってほしくないのが(とか言いながら私は如何様に誤解されても一向にかまわないのだけど)倫理的なのが善い、倫理的じゃなければ悪い、ということは全くない。さらに、自分で自分のことを倫理的だと称することで、何らか自身の優越を誇示しようというのでも全くない。こればかりは本当にそうでない。そのように解されると、私はもはや自分がしゃべることの罪深さに打ちひしがれて何も語れなくなってしまうだろう。だが現にしゃべっているということは、私が打ちひしがれていないということであり、それはつまり私が価値中立的にしゃべっていると私自身が考えているということであり、それはつまりこれらの語りを価値中立的に解釈する方法があるということを意味する。
三段落前の話に戻ろう。問い、私が悪いと思ったものを悪いと判断して何が悪いのか、答え、そりゃあ悪いよ、間違ってんだもの、そういう流れであった。
ここにもう一言付け加えるならば、悪いものを悪いと判断する場合だけでなく、よいものをよいと判断する場合も全く同じ理由から悪い。
つまり、よいねとか、あれはよくはないね、そういう判断をするのが概して悪い。そうして、つまるところ、生きてることが悪い。死ねと言っているのではない。悪いよね、そうね残念ながらね、と言っている。それでおしまいで、それ以上の含みはない。
よくわからん人も少しはわかるという人もいると思うが、判断することが、つまりそれだけの知恵があることがそもそもどうして「原罪」だと言われるのか、その一解釈だと理解してもらえば少しはわかる人の割合が増えるかもしれない。
倫理的なことを語るのはそれ自体倫理的に悪い。そういう考えがずっとある。これまでおそらく10人以上の人間にそのようなことを言ってみたが、「分かる~」という人はいなかった。それでも私がそれをまだ疑わず保持しているのは、本の中に同じ考えを持った人間が確かに存在するからだ。
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距離感の話がしたかったのだ。
あらゆる判断はどこかしら必ず間違っているけれども、それを全くせずにいるというのは無理な話だ。
あれはよいねとか、よいと思うことがあれば必然的にこっちは悪いねとか思うわけだが、そういう考えが浮かぶのは仕方がない。仕方がないというのは消極的な、できればないに越したことはないのだがという意味ではなく、あってしかるべきだと思っているのだけど、ともかくそういう判断にあまり強くコミットしないようにしたいねという話なのである。
人によってはコミットメントがあまりに強くてほとんど判断とその人自身とがゼロ距離であるような人がいる。自分の判断を、それが口からこぼれるや即座にそうと思い込むような人である。あるいは、本人は自覚がないにしろ、自分の言を信じ込むことを好む人なのである。
これらの人は客観的に自身を見るという意味での自己知を欠いている。自分の言ったことを信じて省みる機会が少なく、さらに価値判断となれば自分が善であるとさえ考えるようになる。
が、もうそれはそれである。そういう人はそういう在り方として理解するほかない。
そういうふうに陥らないよう、自分の判断を信じ込みすぎないようにしていたいと思う。
結論としては、だから、そういうことになる。「疑う」といふこと、それが肝要である。
疑うということについてさらに何か言おうかとも思ったが、どうも「日々の心がけ論」的な、規模の小さい啓蒙(これを現代では啓発と呼ぶそうだが)的な話になりそうで、まったく書く気がなくなってしまった。
本当に、他人に影響を与えようと意図して文章を書く人間の気が知れない。どうやったらそんな気持ちになるのだろうか。私は、そういう人があまりいなければ、他人に何事か大事なことを伝えようと思っている文章自体を特段嫌悪することもなかったと思うが、いかんせんそういう人が多すぎるので、それらの人たちへの嫌悪感からそれらの文章自体にも嫌気がさしてくるようになってしまった。
しかし同時に、この点ではものを読む人間のあり方というものを信頼していて、書き手が「何か」を理解してほしくてものを書いてもそれを書き手の思った通りに理解してもらえるということはまずない。文字から何を理解するも読むほうの自由である。
だから文章自体を忌避するのは不合理なのだ。忌避すべきは「何か」を伝えたいといってものを書く人の傲慢さだけでよいはずなのである。
2018.11.24
【復刻】猿電車に乗る
電車に乗るとき私はいつも判断力の鈍る感じがします。
あまりに秩序だったものを目にすると、思考するということが一定以上できなくなるようです。つい反乱でも起こしたくなりますね。こんな状況で反乱というものがあり得るとすれば、それは反乱の先に何かを見据えてというわけではなく、何も見えない状態からの脱却だけを考えてただ暴れるという感じになるでしょう。猿です。猿は今日も電車に乗るのです。
なぜこのような感じがするのか。理由は簡単で、倫理観とは頭のなかの秩序のことだからだろうと思います。倫理とは思考に制限をかけるもの。倫理的であるとは、他の倫理的な人と同じように考えるということです。
非倫理的な行いよりも不倫理的、つまり倫理というものを分かっているのか分かっていないのか分からないような振る舞いが何よりも恐ろしいと思うのは、不倫理的な人間は理解の外側にいるからです。非倫理的な行いをした人であれば、同じ倫理観のもとにいる同族として思いやったり事情を察知したりもできます。あるいはその行いに至った勇気をひそかに褒め称えたりもするかもしれません。不倫理的だとそうはいかない。こういうものは徹底して倫理的な目の監視下に置くしかない、と人は考えます。
駅と電車のなかは倫理が最もよく(かは分かりませんが)目に見える形で現れる場所だろうと思います。なぜか。身体と身体の距離が異様に近いから、ということ以外の理由は今のところ思いつきません。普通生活する上では許容されないほどに近いのです。
電車のなかの人の振る舞い方の一様性は本当にすごいと思います。そう思いながら自分もそれに従ってしまうのですから、いよいよすごい力を持っていることが分かります。ホームで電車を待つときの前の人との距離のあけ方、乗り込むスピード、座席の取り方、座席での身の屈め方、スマホの持ち方など、まさに全くの画一化、学校で教えるどんなことでもここまでの成果をあげることはできないと思うほどです。このように指摘するのも全く新しいことではなく、十何年も前から同じことが繰り返し漫画や本やドラマで言われ続けているにも拘らず、そしてそれが繰り返される理由はこのような画一化された振る舞いに我がことながら危機感に近い滑稽さを感じているからに他ならないにも拘らず、それでも人は今日も同じ仕方で電車に乗るのです。おそらく車中で知能テストをしたら平均的はだいぶ下がるのではないかと思います。
典型的には電車のなかのような状況で判断力が下がるように感じられる人は、倫理的な人で、かつ身体のコントロールができていない人だろうと思います。身体が勝手に均質化された慣習に倣うものだから、おいおい誰の許可を得て動いてるんだと感じるわけですが、かといってどうすれば自分の思い通りに身体が動くのか分からないので、意志が引っ込んでしまう。自由な意志の助けなしでは、思考は碌に働くことができません。思考の仕事は主に与えられたものについて判断することですが、これはほぼ自動で行われます。それはちょうど知覚が目の前にあるものを自動で見分けるのと同じことです。だから、思考にとって大事なのは、「どのように」判断するかではなく「何を」判断するか、なのです。これは思考が自分一人でどうにかできることではありません。何について思考するか、ここに自由な意志の入る余地があるのです。思考をどこから出発させるか、そこにだけ自由があるとF. H. ブラッドリーが『論理学』で言っています。だから、意志が引っ込んだ状態だと、まともに対象が与えられないので、碌なことを考えないわけです。電車が目の前を通り過ぎるとき、あるはずもないのに、誰かが後ろから突き落とそうとしてくるんじゃないかなんて考えるのはこのためです。
きちんとした身体性が備わっている人は、こういう事態にはならないのだろうと考えられます。駅と電車の中で求められる振る舞いを自分のものとして再現できると思われるからです。坂口安吾が、天才は外的な条件を内的な必然性に変えることができると言っていますが、スケールの小さいところではこういうところでの振る舞いにも人間の超越的な在り方の片鱗が現れるわけです。
と、このように多少分析を試みるだけでも、明日からただ身体を空気に隷属させるのでなく自覚的に動かしてみようとか、自分の思考力の低下を観察してみようとか、ほんのわずかに生産的なマインドセットになりますので、お試しください。終わりです。
2019.06.24