【復刻】『なぜこの世界には私しか存在しない(かもしれない)のか』対話のためのノート

 

この世界に私だけしか存在していない、などということはない。

 

 

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世界に私だけが存在する、というこの事実を「独我論」と呼ぶことはできない。

ただ一度きりのたまたまの事実に過ぎないものを、「論」と名付けて一般的なものに変えようとするとき、この事実が持つ真実性すべてが失われてしまうだろう。

独我論というものならば、誰だって同じように信じることができよう。そして、いかなる独我論も真実ではない。だから、もはやそれに価値はない。

 

それにもかかわらず、事実として、世界に私だけが存在するということは揺るがない。

代替不可能な仕方で、私にとって妥当する真実であり、これが他の誰かに、たとえばあなたに、同じように妥当するということはあり得ない。なぜなら、あなたは存在していないからだ。

 

 

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私はこうした事実の一切を、私自身に向かって証言し続けている。

 

私はこの事実を信じている。

信じることは、世界に対する祈りのようなものである。

 

世界が本当にそうであったときに、そうだと知っていたということを述べるために

 

およそ真実を語ろうとする欲求はすべてこの種類の祈りである。

真理に使える者たちのただ一つの義務があるとすれば、誠実に真実を語ろうと努めることがそれであろう。

なぜ、このような義務があるのか。

世界がそうであったときに、それを知っていたことを認めてもらうためだ。

世界がある日、くるりと反転してその本当の姿を現す時があるかもしれない。その時に、ただ驚くだけでは信心があるとは認められない。その時にすでに世界の本当を知っているのでなければならない。

もちろんそんな日は来ない。世界はくるりと反転したりしない。

それでも、あたかもその日が来るかのように、明日にでも来るかのように、待たなければならない。

 

 

2020.10.06

【復刻】田舎の生活

 

それなりに久しぶりなので、このブログの日記的な側面をまず先に充足しておくこととする。日記的な側面? そんな側面あっただろうか。ともかく最近について。

閉塞感、が、ある。日々、頭を使わない。それは、まあ、よい。視野が、狭まってゆく。それも、まあよい。世間に関してもうずっと無知である。なにしろ特に知らなくても困らないのだ。誰かとそんな話題になるわけでもなく、ニュースが生活に影響を与えているところに出くわすわけでもない。出くわしていたとしても気づかないだろうが。これが、私の現今の、生活で、ある。生活とは、こういうもので、ある。こういうものでも、ある。私の今が「典型的な」生活だというのではない。そもそも生活でない人生などはあり得ないので、ああ、生活だなぁ、という実感などはすべて偽り。お前はいままで死んでいたのか。観念的に、生活だなぁ、と口に出すところから偽りは始まるのであって、その時「生活」という概念が私の現在に適用されることになる。「生活」という概念には「正しさ」が含まれていると思う。なぜなら生活でない人生はないから。自分で自分について、正しいなぁ、そう感じることほど手っ取り早く無知に至る道はない。うそ、あるかどうか知らない。ともかくそれは一つの無知無明への道である。こうして私の現今は生活だなぁ生きているなぁと思っているうちに私の眼は暗くなってしまったようである。そういった閉塞感。だけど、それも、まあ、よい。

何をしていれば人はこのようになるのか。たぶん、田舎で暮らしていればこのようになるのだ。私の身体からは、しかしながら、微妙に都会の風が抜けきらず、都会的な自尊心に時折さいなまれていたり、いなかったり(都会のせいにするなって? もっともである)。とはいえ、典型的な田舎人というものもおそらくは存在せず、典型的な田舎人というのはここでは自分の人生についてこれこそが生きるということ・生活するということであるという肯定的な感覚を無自覚のうちに持っているような人のことだが、みんながみんな自己肯定と自己否定のちょうどいいところで奇跡的なバランスを保ちながら生きているような気がする。その奇跡的な巧妙さは、一人の人間が全精力を傾けてやっと維持できるほどのものである。つまり、全ての人が全精力を傾けてこの現在のバランスを取りに来ているということだ。そりゃそうだ。そうに決まっている。だから、そう思うと、私は果てしない気持ちになるのである。私は私の現在で精いっぱいで、そもそも他人に干渉などできるはずもない。その理由がこれである。

 

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2018.09.10

【復刻】誠実主義まとめ

 

 

A. 最も簡単な定式化

 

 

“物事を正しく認識することが善さである”

 

これだけだと、あぁまぁそうだね、合ってんじゃない?で終わってしまいかねない。正しい認識は間違った認識よりはいいだろう。正しいからな。

だがしかし、正しい認識は「いい」だけでなく「善い」ものでもあるのか。倫理的にも善いのか。こうなるとむしろ多くの人は「正しい認識が倫理的に善いわけではない。7×8を56だと思っている子が7×8を54と考えている子より善いわけではないから」と考えそうである。だから一転、「物事を正しく認識することが善さである」というのは変な主張だとみなされることになる。

 

なぜ「善い」のか。

ある意味では答えは極めてシンプルである。それ以外のいかなるものも究極的な「善さ」を担いえないからだ。

認識はあらゆる事柄をカバーする。と一概に言えないところに哲学が発生するわけだが、少なくとも明らかに私たちは認識の外側にあるものを示すことができない。認識の外にこういったものがあります。それはあなた認識しているから「こういったもの」があると言えているわけですよ。じゃあ認識の外側に何かがあります、それが何なのか知りませんけど。知らないのになぜあると言えるのですか。

認識は人間の諸側面のうちで特別な優位性を持つ。何物もそれのもとにあらざるを得ず、何物もそこから出ることはできない。ただ一つの、比較を絶して優越した能力なのである。

 

善いとか悪いとかは、関心のあるところでしか有意味に言うことができない。無関心な事柄については善いも悪いもない。ここで「関心」というのは個人の趣味という意味ではないので、「野球に関心がある」「相撲に関心がある」というのとは別の使われ方である。関心がないというのは全くそれに関して知りもしない、気づきもしない、盲目であるということだ。私たちは関心を自由にすることはできない。関心は私たちの認識の前提である。自分がなにに関心があるのかということは自分を反省してみれば部分的にはわかるけれど、自分がなにに関心がないかは反省しても分からない。

関心の内容は、ある程度恣意的な仕方で細分化することができるだろうけども、それはあくまで恣意的である。関心自体のうちに区別が存在しているのではない。Aを見るときとBを見るときとで全く人間が変わっちゃうんです、とか、全く認識の仕方が違ってるんです、というのは、それが本当なら関心がいくつかに分裂しているということの証拠になるかもしれないが、こういった報告ができるということ自体がそれらの連続性、言い換えれば本当に「全く違っている」わけではないことを示している。それでは関心というのは元来一つのものだということになる。関心が善さや悪さの根本であり、それが一つのものだというところに、善悪がただ一つある、「本当の意味での」善悪がある、という考えが芽生える。

 

本当の意味での善悪、ただ一つの善さと悪さの基準、これは我々が根強く抱いている考えではないだろうか。教養を積むということはある意味ではこの一元的価値に単純には従わないための訓練を積むことだ。教養のある人はリベラルであることが多い。自分が信じるものとは異なる善悪の基準を少なくとも即座に否定したりはしない。これはまぎれもなく教養が人にもたらす能力の一つであり、心がけだけでどうにかなるような底の浅い問題ではない。

だが、教養がより正しい方向性へ人を導くということを信じるからといって、このことだけから教養人の態度の示すところが正しい、つまり善悪の基準は多様で相対的であるのが真の姿だ、と推論するわけにはいかない。極端な非教養人がいたとしよう。彼は一つの確たる信念を持ち、なんでもかんでもそれに従って善いか悪いか判断しようとする。その判断基準はたとえば自分にとって都合がいいかどうかとか、自分が直観的に魅力的に感じるかどうかとか、そういったかなり普遍的な応用の利くものだったとする。彼はたしかにただ一つの善悪の基準を持っている。しかし彼の持つ基準が「正しい」基準であるとは限らない。その正しさは、彼がそれを正しいのだと頑なに信じることによって保障されたりするものではない。むしろ、彼が頑なであればあるだけ、その価値の基準の正しさは怪しいものとなる。

典型的な田吾作はかくのごとく、一つの正しくない基準だけを持っている。それと対比すると、教養のある人というのはいくつもの正しくない基準を持っている、ということができる。だがこれら複数の基準とされているものは、実際は一つなのである。というより、一人の教養人のなかでは一つのものにならざるを得ない。価値基準同士が影響しあうからだ。さもなければ彼は無限に分裂して一つの自己であることができなくなるだろう。

 

それでは、突き詰めて言えば一つであるところの私たちの関心とはどんなものなのか。それは、認識全体と関わるようなものである。あらゆる対象もこの関心の外にあることができない。私たちは私たちが認識するものすべてに関心を持っている。

 

関心というのは単に形式的に「認識の裏にある」と言われるだけのものであってはならない。いやしくも「関心」と呼ばれる以上、たとえその使い方が通常のものと違っていても、普通に私たちが使う「関心」という語と何かしら相通じるところがなくてはいけない。

関心とは、私たちの判断を促進するものである。認識というと受動的、判断というと能動的、という印象があるけれども、判断するに際して私たちは「さぁ判断するぞ。なになに、状況は…」というような意識的なやり方で進めていくのでは断じてない。判断とは勝手に進んでいくものであり、さらに言えばその過程が私たちの意識に上るものですらない。「どうしてそう思ったの?」というような通俗的だが実は正しく答えることの決してできない言語上の表現に惑わされて、私たちは時々自分たちの判断の過程をどこかから観察することができるような気持になる。しかしそれは判断の進行中には(「進行中」という表現が妥当かどうかはおいておくとして)実は決して起こっていない。再帰的に反省して、思い出しているとき、あたかもこれがその当時私の頭で起こったことですとでもいうようなモードで思い出しているに過ぎない。判断というのはそういうものだから、能動的なものだといっても別に自分の身体の動きのような意味で能動的なのではない。意識のコントロール下にあって自在だという意味ではない。

その程度の能動性で良ければ、認識という言葉で私たちが考えているものにだって付与してやってよい。私たちはどうやって認識しているのか知らないが、認識に際して私たちがただの映画のスクリーンのような完全な受動体以上のものでなければ、スクリーンが映画を見ないのと同じで、私たちも何一つ認識しはしない。認識といわれるものだって上の意味で能動的でなければならないのだ。

というわけで、私には適切に「認識」と「判断」とを使い分ける能力がないということがここに示された。私はここでこれらを同じ現象として扱う。

ずいぶん脱線が長くなったが、「関心」というのは判断を促進するようなものだ。つまり認識の前提条件であるだけでなく、認識を後押しするような類のものである。認識を「促進する」といい「後押しする」といい、一体どういうニュアンスでその言葉を使っているのか。

私はこういう意味で用いている。私たちは、判断を、関心に照らして、価値づける。関心に相談して、それがどのような価値を持つものか、善いものか悪いものか、感動的なものか悪寒が走るようなものか、決定している。

 

関心というものをこのように理解するならば、関心と理性との関係は一言で言えるようなシンプルなものではないということが分かる。まず、関心は、それが関心であるうちは理性の内側には存在しない。いや、理性という言い方はここでは混乱を招くかもしれない。こう言ったほうがよいだろうか、関心は判断のうちには存在しない、と。

ある判断がそこにあるとき、つまり私たちがある判断をしているとき、同時に他の判断が存在しているということはない。私たちが後から当時の判断について思い出しながら、まるで複数の判断が同時にあったかのように思い、また語ることはありうる。しかし、判断というものを私たちの主体的存在と切り離せないものであると捉えるならば、私たちが時間上のある一点を占めるというこのことが、まさに判断の絶対的な単一性を意味しているのである。あるいはカント的には統覚の統一であると言われる。

しかし、関心は判断のうちには現れてこないけれども、判断と常に(いわば)接していなければならない。なぜなら、判断は関心に参照されることによって現にそうあるような判断となっているからである。

さらに、関心は理性の(ここでは「理性」という語が適切である)発展に応じて理性の内側へ捉えられることがある。ある人が一つの関心のもとでしか判断することができなかったのが、その関心を自ら自覚すると同時に他の関心のあり方の可能性へも目を開くことで、そのかつて自分の唯一の関心であったものそれ自体について判断することができるようになる。これが教養の機能であるが、こうしたことが起こりうるというのは、理性の発展が関心を取り込むような形で発生しうるからに他ならない。

ここでの関心論は、私がかつて不完全に論じたBradleyの「規範性としての条件」という考えと並行的である。

 

 

★★

 

ゲーテヘーゲル双方の考えでは、「テオリアこそが最高の活動である」(『ヘーゲルからニーチェへ』pp.40-41)。私たちが拘泥するような自我に煩わされることなく、認識すること。それがテオリアである。

 

この考えを倫理学的な含みを持つものと受け取ってよければ、これはまさに誠実主義の表明である。もちろん、このように受け取ることは妥当であろう。誠実主義とは観念論的精神に発するものであるから。

テオリアの強調に誠実主義の誠実主義たるゆえんがある。誠実さとは、真理ただそれのみに対する希求であり、自我からの離脱であり、絶えざる自己反省と自己懐疑であり、実現しないものを実現させようとする苦しみである。それはなお理性の立場にある、と誰かに言われそうであるが、然り、理性の立場を離れないものであり、したがって苦しみから脱さないものである。自己分裂の最中に存在するということである。

これが矛盾しているということから否定されるのは、観念的に考えすぎるからそうなのであって、これが矛盾であるとして否定されるならば現実存在するすべてのものも否定されなければならない。観念的な否定をするものに対しては、現実を見よ、あるいは、汝自身をもっとよく見よ、ということができる。かく現実的なるものこそ、本当の意味で理性的である、必然的である。誠実さとは、観念的な理想主義の謂いではない。現実に対する誠実さである。あるいは、現実とその理性把握に対する誠実さである。

ところで、熱烈であることは誠実主義の要件ではない。態度が熱烈であることは単に偶然的な事柄に過ぎず、人は自身の熱烈さをもってより誠実だと驕るべきではないし、さほど大きな情熱にかられないことをもってこの考えに与する資格がないと卑下するべきでもない。

 

 

★★

 

 

抽象的な議論に終始してはならない。もしBradleyを師とするならば、道徳的意識への参照を怠ってはならない。直観的に受け入れられるような説明も同時に存在しないことには、どんな理屈が並べられても哲学的倫理的に正しい話にはならない。

 

しかし困難がある。私たちが頻繁に遭遇する道徳的な用語の意味の逆転や善悪の逆転など、こういった現象の本質的な理解に私が至っていないということがそれである。

用語の逆転でいうと、たとえば「真面目」という語はその意味が世間的通俗的な使用と私たちの使用とが転倒している。世間的には、ある規則を疑わずに慎ましくそれに則って生活することが真面目なのだ。その規則というのは、もちろんどのようなものでもいいというわけではないが、ある一つのすべての人間に普遍的なものだというわけでもない。仮に世間的な真面目人間たちが自分たちの服従する規則規範を絶対的だとみなしているならば、世間的にはいよいよ真面目であることになり、こちらから見ればいよいよ不真面目であることになる。こちらの使用法では、私たちは常に何らかの特殊な規範規則を意識しているということを前提したうえで、それらのすべてを等しく疑うことが真面目さなのである。もちろん、常にそれらを疑い続けるということは生活していく以上不可能であると言ってよく、したがってこちらの提起する真面目さは実現不可能なものである。実現不可能の実現を目指すという点でこちらはすでに自己矛盾をはらんでいる、と言えるかもしれない。しかしとにかく、世間とこちらとでいくらかの、ひょっとするとほとんどの、道徳的用語がその使用において逆転しているということは言える。

それに伴って、善と悪の判断も逆転する。これは、真面目であることがある意味で善いとみなされていることを考えればよい。世間的には、ルールに黙って従う人は真面目であり、それゆえに善いのだが、私たちからするとそのような人は自分自身による懐疑と反省を怠っているという理由により不真面目であり、同時に悪い。

 

このことから、次のことが分かる。道徳的意識に訴えようとするとき、道徳的意識というものが(それがこちら側のものであれあちら側のものであれ、別のところのものであれ)何を善とし何を悪とするかを尋ねるという仕方で行ってはならない。むしろ、そういった判断の行われる以前の段階を捉えて問題にしなければいけない。

たとえば、なぜある事柄について善悪が問題になり、なぜ他の事柄ではそのようでないのか、というようなことを道徳的意識に尋ねることは有意味であるだろう。

 

「物事を正しくとらえること」という認識についての性質が、倫理的な意味を持ちうるのかどうか。道徳的意識の見地からすると、一見すると認識のあり方と倫理とは何の関係もないかのように見える。そこに問題がある。

もう少し詳しく考えてみよう。道徳的意識の考えるところによると、私たちは物事を正しくとらえたうえで、価値をそこに付与する。もし認識が正しくないならば、私たちは正しい価値付与ができないことになるが、それでも価値付与自体は行うことができる。価値付与こそが倫理的判断の内実であるから、正しい認識は倫理的判断にとって、すなわち善悪にとって、望ましい条件である。だが必須ではない。現に、たとえば、かつて魔女狩りが行われたとき、現代の私たちからすれば正しくない認識に基づいて善悪の判断がなされたということは明白である。このように、正しくない認識の上にも価値の判断は成立しうるのであって、認識の正しさがそのまま倫理性だということにはならない。道徳的意識は、まず第一にこのような異論を唱える。

 

しかし、この見解は「価値判断は判断者が自由に行うことができる」という謬見のもとで成り立っている。正しいのか間違っているのか、ともかくある認識が与えられたうえで、その内容についてさらに価値判断を下す、その際価値判断は判断者の「選択」である、つまり自由意思に基づく。だから私はこれを善いと思う、あの子は悪いと思っている、などという価値についての意見の相違が生まれうる。こうした考えは間違っている。私たちは価値判断の際に自由に選択したりはしない。もし善や悪が私たちによって自由に選択されるものだとしたら、その判断に誰が重きを置くだろうか。

この点を指摘すれば、上の反論はほとんど効力を失うであろう。

上の反論が効力を失ったからといって、道徳的意識が認識の正しさと倫理とを結びつけることに抵抗を覚えるのはそれ自体間違っているのだ、と主張することはできない。道徳的意識の直観を尊重しないならば、私たちは何のためにそれを参照しているのやら分からない。

道徳的意識の抵抗感を正しく定式化するのに失敗したのである。もっと別の形でこの抵抗感を述べなおすことができるかもしれない。

と同時に、この道徳的意識の直観的な意見が絶対に正しいわけでもない。最終的には誠実主義と折り合いをつけることができるようなものだと私は考える。折り合いがすでに私のなかではついているはずなのである。ただそれが明瞭な仕方で表現するのが容易でないというだけのことだ。

 

 

★★

 

 

私たちの具体的人生に即して、物事の正しい認識、つまり真理と倫理的善さとの関係を考えるとき、一方では私たちは直観的ともいえる仕方でこの誠実主義の主張を支持している、そう言えるような側面もある。そしてそこにこそこの名前のふさわしさがあるのだが、私たちの宗教的直観は誠実主義の基本的な考えを是とする。

 

 

2018.10.24

 

【復刻】仕事は私をして働かしめる

 

 

仕事がはかどらないとする。それは私のせいではない。仕事のせいだ、敢えて言えば。だって、「仕事が」はかどらない、と言うじゃないか。はかどらないのは仕事である。もし私が原因ではかどらないのだとすれば、「私が仕事をはかどらない」とかそういう言い方をするはずである。逆に、仕事が順調に進むなら、それも仕事のおかげである。私は何もしない。強いて言えばこの体を貸したくらいのことはあったろうと思うが、「いい会議室だった、おかげで仕事が万事うまくいったよ」などと言わないように、「いい身体だった、おかげで仕事がうまく進んだよ」とは言わない。

主導権は仕事にある。仕事には意志があるのだ。翻って、私には意志はない。なぜか。あらゆるものは、私のうちに根拠を持つことがないからだ。すべてのものは私以上のものである。他者論というのは私以上のものを他者と見做すところから始まるのであって、どこかで「たしかに他者は私のうちに入りきるものではない、けれども、私だって少しは肩を並べられるくらいのものなんじゃないかなぁ」なんて考え始めると、一切の他者はあなたの中から出て行ってしまう。私以上でないものはない。なぜか。そのようなものにただ一つ与えられる呼称が「私」だからである。仕事も他者である。外からやってくるからだ。仕事はどこかに根拠を持っている、出自や必然的連関を持つ。世界の事実は、今ここにある私のうちに根拠を持つことがない。根拠を持つことがないということが一つの事実を成すのではないのか、すなわち「私は私である」「私は今ここに存在する」という事実を成すのではないのか。成すのではない。これは少しも事実ではないからだ。この命題に対する私の確信は、これが事実ではないという確信に由来するのである。事実でないなら何を言っても間違いも正解もないからだ。

とても形而上学的になった。言うまでもないことだが、何を言っているのか説明しろと言われても無理である。私にも分かっていないからである。なぜ人間は自分でも分からないようなことを書くことができるのか。このことは私には全く不思議ではない。なぜなら私はこれまで何度も自分でも分からないことを書いてきたからだ。むしろ世間一般でこのような疑問が湧くことのほうが不思議なのである。私が書くことを私が分かっていないなんて、当たり前じゃないのか。なぜなら私はただ体を貸すだけだからだ。これも仕事である。外から来ている。他者である。他者であるから私以上のものである。私以上のものであるから私には分からない。ここまで書いて、私には自分が何を言っているのか分かっているような気がしてきた。私には分かっている、と言ってみる。分かっているか、分かっていないか、そんなことはどうでもよいのである。なぜか。分かっているも分かっていないもどちらも事実ではないからだ。

 

さて、私たちは仕事をする。広い意味で言えば、あらゆる活動を仕事と呼ぶこともできる。私たちは自分が自分の力で能動的に働いていると思っている。思っているのか? だったら、この「私たち」から私を省かなければならない。私は自分が自分の力で仕事をしていると思っていないからだ。自分にそういう「力」があるとは思っていない。仕事が私たちを動かしているのである。もちろん、ここで言っているのは「仕事量が多いから残業を余儀なくされる」とかそういう事態のことではない。仕事のほうが意志をもって動いていくので、私たちはそれによって動き、生きるのである。

前段落最後の文章はなんだか不器用な文章に見える。しかし世間的に流布していない考えを表明するとしばしばこのようになる。逆に、世間的には流布しているが、間違っていると思うので私が使いたくない表現をここで二つ挙げておく。①「仕事のほうが意志をもって動いて「くれる」ので、私たちは…」仕事は他者である。仕事が私に根拠を持っているわけではない。だからあたかも「私のために」動くかのようにしゃべるのは不適切でありまた不遜である。仕事は私を気にかけない。私を通して自己を実現するだけである。②「仕事のほうが意志をもって動いていくので、私たちはそれによって動き、生きる「のがよい」」仕事のほうが意志を持ち、また偉大であるという事実を前にして、私の態度などは関係がない。私に何かをどうにかできると思っているのでこれは間違いなのである。

 

最後に、仕事とそれに付随する責任について。

主体的に働く仕事があって、私がそれに付随するだけだと考えるならば、仕事が失敗したとき私に責任はないのか。ない。私に責任はない。それでも怒られたりするじゃないか。そりゃそうだ。なぜ、そりゃそうなのか。そういうものだからだ。仕事に失敗すれば怒られるのである。いや、失敗しなくても怒られるときは怒られるのである。責任や倫理という概念とは関係がない。怒られという現象と責任とが結びついていなければならない、という考えは存在するが、考えが存在するからと言って現実にもそういう結びつきが存在するわけではない。むしろ、この考えは「考え」として、つまりイデアとして存在することを自身のアイデンティティの一部としているので、どうやっても現実に存在することはあり得ない。ツチノコが存在しえないのと同じである。だから、仕事の責任からすぐに怒られという現象に話題を転じるのは間違いなのである。話題を転じたのは誰か。私である。私が間違いなのである。

自由論と責任概念との関連ということが長いこと哲学的議題になっているというのは本当だが、私はここ五年くらいずっと、つまりいかに哲学、とくに現代分析哲学が自由と責任についてどうでもいいことを語ってきたかを耳にしてからずっと、自由と責任とはほとんど関係がないという気持ちを抱いてきた。長い間哲学の歴史が問題にしてきたことを問題に思わないというのは私の問題感受能力がやばいからなのか。これについてはたしか永井均が「長い間哲学の問題とされてきたものほど本当はどうでもいいものだ(どうでもいいものだから残ったのだ)」という趣旨のことを話していた気がする。この考えはもっと広まってもよい。真でも偽でも関係なく、とりあえずある程度広まることに意味のある考え方というものもある。哲学の学術的権威というものがあるとすれば、このようなどうでもいい問題に精通しているかどうかで測られるべきではない。こうして私の話は脱線してゆく。

自由論はおいておくとして、責任論、あるいは倫理の本質というのは極めてとてもかなりすごく真性の問題である。上で私は仕事を失敗した私に責任はないといった。ないのである。しかし、ないのにあるのである。ないはずのものがあるのである。なぜあると言えるのか。あるからだ。私は、仕事の失敗によって、責任を感じるからだ。倫理を認識するからだ。ないはずのものなど人間理性の前には存在しえない。人間理性はそう思っている。なぜか。名づけることができるからだ。名づけられたものは、それがどれだけ異質であろうとも、他の(同じく名づけられた)存在者と同列のものとなって存在し始めるということは『千と千尋の神隠し』を見た人なら知っているだろう。そして理性の前に名づけられないものはないはずなのである。これはおそらく正しい。理性に名づけられないものはない。湯婆婆に名づけられないものはない。

倫理学とは、と以前問題にした時も同じような話になったと記憶している。その時は、「私は正しい、正しいにもかかわらず正しくあらねばならない、というのが倫理学の問題なのだ」というようなことを言っていた。さすがにこの辺りは何を言っているのか分からない。分からないけれど分かる。

そういうわけであるから、仕事は私をして働かしめるのである。

 

 

という仕事論を、最近積極的に提唱している。

 

 

2018.08.23

【復刻】疑問だらけの素晴らしきこの世界

 

薄々感づかれているかもしれないが、私の頭はもう長らく人文学的・思想的・宗教的な放射線を強く浴び続けてきたため、もはや不可逆であるほどの変質を被っている。

いやいや、そんなに長いこと従事してきたわけではないだろう、たかが数年だ(まだ十年にも満たない!)そんな大げさな言い方が許されるほど成熟してはいないよ、君は。

 

私は異様なほど謙虚なので、上のようにまどろっこしい語り方を避けることがどうしてもできない。

 

まぁ、それはそれとしてだ。どうして私の頭の話をしようと思ったのかというと、この記事の内容があまりにもチャレンジングであるからだ。あまりにも通俗的真理から遠ざかっているからだ。にも拘らず、病に侵されている私の頭にはどうにも正しく思えてしまうからなのだ。

いやいや、真実を語るにせよ虚偽を述べるにせよ、たかが数年の修行だけで君がそんな途方もない思想的距離に至ることができるとは思えない。君が言うことは沖合100kmの距離にあるような深遠なる言葉ではありえず、せいぜい沖合20mの事柄を言い当てるのが関の山だ。ことさらにその射程の広さをアピールするのは、たんに余計であるばかりでなく真実に深みを持つ賢者たちにとっては不快ですらある。

 

そう、私は異様に謙虚なので。

 

 

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真理とは何か、ということについてしゃべってみようと思う。

 

真理とは、断定的な形で述べられるものだと通常は考えられている。やや耳慣れない言い方をすると(哲学に親しんだ人間には耳慣れすぎた言い方なのだが)、真理は命題の形で表されるものと考えられている。

「ナントカはナントカだ」とか、「ナントカがナントカだ」という形式。

しかし、なぜそうなのだろう?

 

なぜそう思われているのかは後回しにして、私は違う考えを持っている、ということを話したい。

真理は、疑問として我々の心に現れる。これが私の考え。

 

 

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正しい疑問の提出こそ、思想の果たすべき役割である。

大事なのは疑問を正確に言語化することであって、思想家の努力はこれまでもこれからもすべからく疑問を適切に表現するための努力であった。

 

 

2018.09.14

 

【復刻】恋愛論1 恋愛感情論序論

 

 

愛的・好き的感情というものは気まぐれであって、しかしこれが特別気まぐれであるように見えるのは、むしろ私たちの願望のせいである。

この感情が本物であってほしい、不変のものであってほしいという願望が、かえって好き的感情を不必要なプレッシャーのもとに常時さらすこととなり、結果として必要以上に不安定なものにさせる。

しかしながら、この(好き的感情が確かなものであってほしいという)願望は倫理的要請のように感じられるために生じてくるもので、つまり義務のように感じられるためにそのように願望しているのであって、その意味で必然的な願望である。

 

しかしこれは考えてみればおかしな願望で、決して私たちの真正の願望だとは言えない。偽物である。

あたかもそのように願望することがパートナーに対する義務であるかのように感じられる。しかし私たちは、本来ならばこのような願望を持つはずがないのだ。この特定の相手に対する愛情が、この特定の相手がどんな風に変化しようとも、変わらずあり続けてくれるようになどと考えるのはおかしなことだ。その相手が変化した結果、私に不幸ばかりがもたらされるようになってもなおこのような感情を持ち続けたいとしたならば、私はとても不合理な人間だ。

誰であれ、私が一緒にいて幸福を感じられるような人に対して愛的感情を持ち続けていたいというのならば理解はできる。しかしこの場合、もちろんこの「私を幸せにしてくれる誰か」を現在のパートナーなり特定の一人物と同一視することはできない。そんなものはドグマである。

しかも、私が幸福を感じられる人に対して愛的感情を持っていたいという願望は、その人と一緒にいられることによる幸福のほうに根拠があるのであって、つまるところ幸せでいたいという願望の一部分であるにすぎない。このとき人は、愛的感情が変わらないことを願っているのじゃない、ただ幸福を願っているのだ。

つまり、まとめると、この愛的・好き的気持ちが本物であってほしい、ずっと変わらないであって欲しい、というのは、本来的な願望ではない。

 

 

いや、上のことは正しくはない。

人を好きになったことがあればわかるであろうが、といって別に分からなくてもよいのであるが、特定の人に対する愛的好き的感情を確かなものたらしめたいという願望は切実なリアリティを持つ。

リアリティを持つ、ように感じられる。

感じられる、からといってそれがその通りであるとは限らない。それはその通りである。

私は、この「感じられる」ことだけに依拠してそれをリアルだと主張する人たちの強い見方ではない。

どっちなんだ、お前は。

私か? 私は、やっぱりその気持ちが確かなものであってほしいという願望は、リアルなものだと考える。リアルやなぁと感じるからではない。それが倫理的要請だからだ。

 

つまるところ、恋愛というのは倫理的な関係なのである。(そんなことは言うまでもない。)

愛的感情の本質が、気持ちよさや幸福ではないのだ。この感情の本質は「これが続いてほしい」、これである。

この感情が特定の相手を前にして初めて現れるのも、その本質が幸福にではなくその相手との関係性自体に根差していることによる。

だから、まだ会ったこともない理想の恋人に対して愛的好き的感情は発生しない。「私を幸せにしてくれる誰か」に対して愛的感情を持つことはない。

 

愛的好き的感情は、その感情自身が未来に存続し続けることを願う、必然的に自己を束縛する感情である。

「好きだよ」と「明日も一緒にいたいね」は同義だ。

「好きだよ」と、口にした瞬間に限って言えば、その通りだ。だが、もちろん「明日も一緒にいたいね」と今日思うことと、明日になって「今日も一緒にいたいな」と思うこととは違う。

だが、明日だったはずのその日がいざ今日になってみたとき、別に一緒にいたくないなと感じたら悩ましくなる。なぜか。昨日、次の日の自分を束縛していたことを覚えているからだ。

 

この時、優先されるべきはその時の非愛的感情のほうである。優先されるべきというより、それだけが正しく自分の感情なのだから、それを選ぶ以外に仕方がない。

だがそうすると、約束を違えてしまっているような感覚が拭えない。

 

そうかもしれない。

もしあなたが、好きな人と一緒にいる根拠として愛的好き的感情をあげるならば、そうなってしまうだろう。「好きだから一緒にいるんだ~」とか言っていたならば、じゃあいざその気持ちが傾いてきた時にどうするのか。

 

私は好き的感情に根拠を置くのは好きではない。

というより、一緒にいることに根拠を求めるのは必要でないと考える。

愛的感情で未来の自分を倫理的に縛ることはできるが、それによって未来を現に決定することはできない。

 

根拠というのは何事かを説明するために持ち出されるものだ。よく考えてみないと気付かないことだが、私たちが持ち出す根拠の(全てといって問題があれば)ほとんどは、私たちにとって自明のことを敢えて「説明」するために用いられる。たとえば哲学では、「どうして経験が可能なのか」や「どうしてまだ見たこともない火星人を考えることができるのか」ということを説明しようとしたりするのだが、経験が可能であることや火星人について考えられるという事実自体は自明であって、これが事実か否かということに関しては私たちは説明を要さない。

根拠を与えることができれば、この事実がより強くなるというものではない。根拠が与えられなければ、この事実が疑わしくなるということはない。

一緒にいるということに関しても同様で、そこに根拠がなければ浅薄な関係になるというものでもない。

 

また、確かな未来が欲しくて根拠を与えたくなるという場合もありうるが、これは完全に無駄なことだ。

ある種の説明は未来について記述するが(彗星の軌道を予測したりなど)、これはこの未来の出来事も単に事実として扱っているからできていることだ。このような軌道尾で飛んできてほしいという願望を出力するだけの説明には、軌道の予測はできない。

何が言いたいかというと、そんな複雑なことを言っている訳ではなくて、今現在を愛的感情で根拠づけても未来を予測できたりはしないし、その感情が本性上規定するような仕方で現に未来が現れたりもしないよ、ということ(あれ、なんか複雑な言い方になった。願望と未来とは関係がないよ、ということです)。

 

一般に、何かにつけて説明を与えるのは現代の病理だ。

根拠と説明を失うことは現代人にとっての不安である。(なぜかというと、現代が啓蒙されきった時代だからです。啓蒙は不安を取り除くことを本分とするが、それは根拠と説明付けによってなされるから。)

しかし、根拠がければ死ぬのかというと、現代人からすると意外なことに、死なないのである。生活が続くのである。

これは一種の知的閃きのようなものだ。まぁそんなことはどうでもいい。

好きな人と一緒にいるのに根拠をいちいち考える必要は、ない、かどうかは知らないが、私はあえて考えない生き方をしたいと思う。

 

 

2018.10.03

 

【復刻】倫理1 倫理学の内容

私たちは常に正しい。常に必然的な仕方で在る。が、それにも関わらず、私たちは正しく在らなければならない。常に正しく在るのに、正しく在らなければならない。

どういうことやねん。

しかし、これが単純に「どういうことやねん」となる訳ではない人というのもいる。いや、明らかに私は変なことを言っている、のだけれども、にも関わらず(おそらく)人間精神の本質に即して大事なことを言っている。

 

私たちは正しく在る。だからこそ、正しくあろうではないか。

「いいんだいいんだ、そのままでいいんだ。ただ気が向いたら(あなたはきっと気が向くだろう)南無阿弥陀仏と言ってごらん」こう言えば法然

「私たちが常に正しいということは神の意志からして明らかにそうであらねばなりません。そのことを私たちはきっと、神のうちへと入っていくことによって、理解することでしょう」と言うのはたぶんどこかの偉大な司教とかだろうか。

 

ここで「正しく在ろうとする」ということが倫理的な問題である。

端的に、現に、「私たちが正しく在る」という事実(これを事実と呼んでよければ)のほうは倫理の境界線をなす問題である。

 

★★★

 

一般に、自由概念は倫理と関わりを持つと考えられている。

だが、「自由である」とか「自由でない」とかという問題は、「私たちは現に正しく在る」という言明と同じ性質のものだから、自由概念は倫理と直接関わるものではない。倫理の内実をなすものではない。良くて倫理の境界線に(すなわち世界の境界線に?)関する問題だ。

 

よく、自由がなければ倫理的な一切のことも問うことができない、自由がなければ倫理もない、と言われる。が、そんなことはない。

仮に自由がなくとも、私たちは倫理的責めを負い、倫理的ぎこちなさを感じ、また時には倫理的滑らかさでもって生きていく。

生きるにあたって、およそ倫理的でなくなることはできない。といってもちろん、最高度に倫理的であることもできない。

 

自由を強く信奉する人は、自由がなければ倫理的責任どころか社会的責任や法的責任も問えない、と主張する(倫理的・社会的・法的の区別がどのようかということはおいておくとして)。

私としては、これはおかしな話だと言わなければならない。だって、現に私たちはこの世界で自由ではないのに、社会的・法的責任を問うているじゃないですか。現に自由でない私たちは社会的に償わせたり法的に裁いているじゃないか。

なに? 「現に私たちは自由じゃない」のところがおかしい?

そうでもなかろう。おかしいと言うなら、この世界と、私たちが自由じゃない世界とはどう違うのか。その違いを私たちはどうやって知ることができるのか。

私たちは現に自由じゃない、とこうして言えちゃう以上、私たちは現に自由じゃないのだ。同じく、私たちは現に自由だ、とも言えるので、私たちは現に自由でもある。

 

つまりどういうことかというと、「自由だ」「自由じゃない」という言明はこういう性質のものだ、ということだ。(最初に言った「私たちは正しい、必然的な在り方をしている」というのも、この意味で同じ性質のものだ。)

こういった言明は、倫理の内実に影響を与えたり、倫理自体をなかったことにできるものではない。

自由と倫理は両立するし、非自由と倫理も両立する。

 

 

さて、倫理の内容とは、「私たちは正しくあらねばならない」というものだ。

この言明を証明することはできない。だから、私たちは正しくあらねばならないのかどうか、というと、別にそういう訳でもないと言わざるをえない(Why be moral問題への回答はこういうものになる)。

ただ、哲学が経験を説明するような仕方で、倫理も説明されなければならない。ならないということはないけど、それが倫理学の仕事なのだ。

それについてはそのうちまた語られたりするかもしれないね。

 

 

※この記事は極めて不明瞭である。

 

 

2018.10.07