【復刻】忙しいと書けなくなる

 

このブログはつい最近始めたばかりだが、早くも更新が滞ってしまっている。どうでもいいことだが、更新が滞る以前にはかろうじて自分のもののように感じていたこのスペースも、今ではほとんど自分のもののように感じない。

 

なぜ最近書いていないのか。それは、最近私が忙しいからである。

 

書けないのは忙しいからだ。時間がないからではない。

忙しいんだなぁ、それならしょうがないなあ、と考え、それ以上疑問を持たない人ならば、おそらく私の言っていることを書く時間がないという意味に理解して、そこで納得して終わるのだろうと思う。

だが私は忙しいとしか言っていないのであって、書く時間がないとは思っていないのだ。単に忙しいことと、時間がないこととの間には飛躍がある。(世間的には飛躍がないことになっているけれども、ある。このことが理解できないならば、あなたは世間的にはとても真面目だが、真理に対して不誠実なのだろう。わざわざこんなことをカッコ内に書くのは、これと似た飛躍が世間にたくさんあるからだ。)

だから、なぜ私は忙しいと書けないのだろうかと疑問する余地がここにはある。

 

一言で言えば、忙しい私はつまらないのだ。だから何かを書くことができない。

 

一ヶ月くらい以前の私は素敵な人間だった。何時間ぼーっとしていても全く飽きず、いろんなことに関心はあるがそのどれにもまるで自分の命がかかっているかのような必死さがなかった。人生というものに全く適した心境だった。

と書いてもそれがどんな様子だったのか伝わる気が全くしない。実際、私もほとんど忘れてしまっているのかもしれない。

 

私はよくできた無能だった。無能であることを選び取り、肯定することのできる人間だった。

無能だ、というのは、何かをできるということによって自分を語らないからだ。

もちろん現にこの世界の(あるいは社会の)一点を私は占めているわけで、そこでは、いくら自分で自分を無能だと認めていても、私の何かの能力が常に発揮されることになるわけで、それらのうちいくつかは上手くできるがいくつかは上手くいかず、それらを通して私という人間が確定されるということは他の全ての人間と同じである。これは当たり前のことである。

しかし、私は何事にも自分の命がかかっていなかったので、そうやって確定された私というものを根拠に私自身を肯定することがなかったのである。そのような、直接的でない、回りくどく面倒くさい自己肯定よりはるかに単純な力を信じていた。

 

あなたは何者だろうか。

この質問に答えるとき、あなたが自分の特徴や、価値観や、能力で答えようとするならば、あなたは私の言うところの有能な人間である。

無能な人間は、自分のことを特徴や価値観や能力で決めることを嫌に思い、困ったなぁといった感じで少し考え、まぁ、何者でもいいんじゃないでしょうかね、と返すくらいしかできない。

私の命が何かの価値に染まるのが嫌なのである。繰り返すが、現実に何かに染まってしまう分には仕方がない。生きる限り続く私の悪とは、生きる限り私が何かに染まっているということによる。

だが、私を染める何かが私の命を肯定するのではない。なぜって、私は無能だからだ。

 

肯定するとはどういうことなのか。私が生きているということは私が命を肯定しているということである。あなたが顔を持つとは、あなたが自分の顔を肯定するということだ。

だが、顔や人生について、それを肯定するのに必要であるものは、実際にそれを持つということだけで、それ以外の何も必要でない。それ以外の何も、本当は、それらを肯定することはできない。

画家が絵を描くことに人生を捧げるという。絵を描くことがこの画家の人生を肯定したのだろうか。そういう話を喜ぶ人はいるかもしれないが、実はこれは違う。ひとまずその画家が死ぬまでは死ななかったということが、その死ぬまでの人生の肯定なのであり、それ以外の何もかもは偶然的で副次的なものだった。言ってしまえば、画家は暇だったから絵を描いたのである。

人生の意味なんてものもそうである。何かのために生きる人生なんてない。そんなものは後付けだ。だが、そうして後付ける前から人生は始まり、後付けきる前と後とに関係なく人生は終わるのだ。

 

私も四年位前、当時何を考えていたのか覚えていないが(当時の私は全く馬鹿で、くだらないことしか考えられなかったから、くだらないことはすぐ忘れてしまうのだ)、人生の喜びをどこに見出したらいいのかを思い悩んだことがあった。この私のどこが馬鹿なのかというと、そもそも問題設定が(少なくとも今の私から見ると)馬鹿である。

東京都内のどこか、川沿いの、たしか満開に近かった桜の木の下で、私は人生の喜びを、こういってよければ人生の意味を、美しいものを見ることに見出そう、と考えた。その瞬間の桜が全く美しさを讃えていなかったのは、心象風景がよく表れていたと思う。私は馬鹿だったけれども、そこで今しがた考えたことがどれだけつまらないものだったかを即座に理解する程度には賢かったのである。

美しいものを見たければ好きなだけ見ればいいと思う。だが、私が美しいものを見る「から」私は人生を肯定するのではない。私はすでにそうしているのである。私はそのことを正しく認識しさえすればよかったのである。

 

 

長々と、かなり説教臭いことを書いてしまったが、話を一番初めに戻そう。

私は、忙しくてブログが書けない、というところから始めたのだった。

 

なぜ忙しいと書けないのか。

私は、私が前ほど無能ではなくなってしまったように感じるのである。誠に遺憾ながら、少しだけ有能な人間になってしまったのではないかと不安なのだ。

これはさもありなんという話ではある。

忙しいということは、それだけ何かの能力や価値観の渦に晒されているということで、私はそれが私の人生に必要な何かだと勘違いしているのかもしれない。私は今の私にできることとか価値観とか人間関係とか未来とか希望とかそういったもので生きようとしているのかもしれない。

 

自分のことは正しく見られない。これは全くその通りという感じの言葉で、私は自分が前より有能になってしまったのか、つまらなく(だけど、世間的には有能な方が望まれるに決まっている)なってしまったのか、よく分かっていない。

だが、そういうことになってしまっていてもおかしくないので、なかなか書けないのである。

 

 

ちなみに、書かない理由として、飽きたとか、ネタ切れとか、そういった心配はあまりない。

しばらく書かなかったらそのこと自体をネタにするくらいだから、その点で困りはしないのである。

 

次は数日前くらいの時事ネタを扱おうと考えているが、上述の通りいつ更新できるか分からないので、鮮度の問題もあって、別のことを書き出すかもしれない。

 

 

2018.04.13